小説

名前のない手記(26)

禍々しい事件現場を見た時、私の心は大きく、深く陥没していった。取り返しのつかぬ事態に身を震わし、目を瞠った。名状しがたい、黒い波のようなものに意識がさらわれ、その場に立ち尽くした。 それでも思考は正常に働いたのだろう。私は慄然としながら、そ…

名前のない手記(25)

〇 私は今、金本旅館の一室で筆を執っている。九月になったが、暑さは一向に衰えを見せない。周りは静かである。筆を執っている間に、労働者たちは日雇いの仕事を終えて帰ってきて、酒と肴を食らって寝た。彼らとは変わらず意味のない言葉を交わすが、もはや…

名前のない手記(24)

〇 傍から見る分には解らなかったが、それ以来藤田君は明らかに変化した。毎日必ず日雇いの仕事へ出るだけでなく、パチンコへ行く頻度が落ち、酒量も減った。私の言葉が何かの決め手になったとは思えない。ただ、ぼんやりと未来につなぐ何かが心の中で萌した…

名前のない手記(23)

「ん? どうしてですか?」 藤田君は目を丸めた。私は声を落として言った。「こんな都会の掃き溜めのようなところで大切な時間を浪費するものじゃないよ。オレは正真正銘の落伍者だが、君にはまだまだ可能性がある。こんなところで過ごして将来を棒に振って…

名前のない手記(22)

〇 それから数日後、タレントの酒井法子が逮捕された。覚せい剤取締法違反容疑とのことだ。藤田君と同じように「魔が差した」のである。しかし人間である以上、魔が差さぬことなどあろうはずはない。大切なのはどのように魔を飼い馴らして生きていくかという…

名前のない手記(21)

笹本は名を司といい、歳は四十代の半ばということだった。藤田君が勤めていた家電量販店で店長をしていた。笹本が藤田君に語ったところによれば、藤田君が派遣切りに遭ったすぐ後に店は経営上の理由により閉店。笹本も職を失った。クビである。その後、都内…

名前のない手記(20)

翌日、私が日雇いの仕事を終えて帰ってくると、なんと藤田君はまだ寝ていた。おばさんが言うには、日中に数度、起き出してきてはトイレで激しい嘔吐を繰り返していたとのことだ。昨夜は相当な量を飲んだようだ。 私はいつものようにドヤ街の通りで住人たちと…

名前のない手記(19)

〇 私は乱闘騒ぎの直後、藤田君を見つけた。藤田君は顔を紅潮させ、走りつかれて住宅街のゴミ置き場で倒れて眠っていた。「愚かな男だ。このまま死んでしまった方がどれだけマシか解らない」 私はそう思った。そして、そのように思って見棄てておけばよかっ…

名前のない手記(18)

「バブル」。そうなのだ。奴らのもう一つの共通項は、戦後すぐか高度成長のただ中に生まれ、バブルの絶頂へ向かう「日本の上昇気流」をもろに浴びて育った世代であることだ。奴らにとっては「明日はもっと良く」ならなくてはならず、働く者はすべからくその…

名前のない手記(17)

〇 ここで、藤田君と数ヶ月の間、生活を共にしていた中年男の笹本のことを補足しておく。この男のことなど書きたくもないが、藤田君の名誉のために多少は紙面を割いておく必要がある。 ホームレス連中と見物客との乱闘の引き金を引いたのは、明らかに笹本で…

名前のない手記(16)

藤田君は殺気に満ちた目を男に向けると、逆に男のシャツの襟を掴んだ。体をのけぞらせ、男の鼻をめがけて思い切り頭突きを食らわせた。鈍い音がした。私は無言のまま大口を開けた。とんでもないことが起きたと思った。男は鼻から大量の血を噴き出して倒れた…

名前のない手記(15)

がんばって桜橋の方まで行こうと、人ごみをぬって歩いていたら、どこかから人の叫び声が聞こえてきた。なにごとかと思ったが、喧嘩だろうと合唱だろうと、このような夜ならさして珍しくはない。無視して行き過ぎようとしたが、「ホームレス!」だの「難民!…

名前のない手記(14)

〇 それからというもの、私の中での藤田君に関する感情の起伏は消え失せた。夜の酒、寝床の書籍を友に、私は夏を過ごした。藤田君のことは思い返すこともなかった。 今思い返してみると、藤田君と笹本は夏の間、ずっと隅田川べりで暮らしていたのであろう。…

名前のない手記(13)

すっかり長くなった髪をダラリと下ろしていて別人のようだったが、藤田君に違いなかった。酒に頬を赤らめていた。すっかりマイケル・ジャクソンになったつもりでいるのだろう。「Who's Bad!」とはマイケルの楽曲「BAD」の歌詞の一部である。マイケルと街のな…

名前のない手記(12)

高層ビル群が雨上がりの西日を浴びて橙に照っていた。雨上がりのトワイライトタイムほど素敵な時間はない。私は心を小躍りさせながら日本堤から隅田川までを歩いた。川べりまで出ると、桜橋を目指してぶらぶらした。 ここは東京有数のホームレスたちの住処で…

名前のない手記(11)

それきり、藤田君とも連絡が途切れてしまい、数ヶ月が過ぎた。私はこれまで通り金本旅館に暮らし、日雇い労働を続けた。昼は建設現場で砂埃にまみれ、夜になれば酒をあおり、金が貯まれば風俗店へ出かけて女を買う。そしてただ時間ばかりが過ぎていく。その…

名前のない手記(10)

日比谷公園での暮らしはそれから数日間つづき、年明け早々に派遣村は閉じた。その数日間、私は藤田君と中年男の姿を見ることなく過ごした。 派遣村を後にした私は山谷へ帰り、再び金本旅館に入った。以前とは違う部屋をあてがわれた。山谷のドヤは人の入れ替…

名前のない手記(9)

そんなことを思っていた矢先、藤田君の前に笹本が現れた。大晦日のことだから、よく覚えている。もっとも、その時私は笹本という名前を知ることすらなかったのだが。 二〇〇八年十二月三十一日、日比谷公園に「年越し派遣村」が開村した。無償で食事と寝る場…

名前のない手記(8)

〇 カップ酒干して秋夜の道に捨つ夢見えぬまままどろむ山谷 こういう短歌を寝床でしたため、新聞に投稿したら、入選してしまった。新聞の評価もいいかげんだな、と思った。短歌の投稿は私の数少ない趣味の一つである。これまでかなりいい確率で入選している…

名前のない手記(7)

藤田君はまた宙を見ていた。目を細めていた。「彼女とは職場で一緒だったんですけど、僕の方は派遣社員だったんですよ。結婚の約束は正社員になることを前提にしていて。でも、この間、クビになった。それと一緒に、結婚の夢も消えちゃいました」「………」 私…

名前のない手記(6)

「しかし、アメリカという国はこれからどうなるのだろう?」「僕がチビのころ、アメリカは『世界の第一等国』というイメージでしたね。街でかかる映画はほとんどがハリウッド映画で、マイケルやマライアが世界のトップエインターテイナーという感じだった。…

名前のない手記(5)

〇 その時点では藤田君はただ「相部屋の奇妙な若者」だった。その印象が変わり、もう一歩踏み込んだ間柄に変わったのは、先に述べたとおり結婚の喪失を聞いてからだ。アメリカでバラク・オバマが大統領選挙に勝利した十一月の初めごろのこと。深夜、藤田君と…

名前のない手記(4)

このドヤ街では藤田君のようにのっけから自分の素性を明かす者は少ない。明かすとしても、よほど相手と親しくなってからのことであろう。しかし、私の経験上では親しくなった相手に対してもここの人間が本当の過去を語るとは信じがたい。ここにたむろする連…

名前のない手記(3)

〇 初めて藤田君と会ったのは昨年の十月の中ごろであったろう。金本旅館で相部屋となった当初は珍しく若い男が泊まりに来ているな、と思った程度で気にも留めなかった。最初に藤田君に注意を向けたのは、十月の終わりごろのある夜である。 金本旅館では一室…

名前のない手記(2)

ここで私自身のことを、必要なだけ記しておくことにする。私はすでに五十歳代に差しかかろうという中年の男である。三十歳代の終わりごろ、それまで数年間つづけてきた結婚生活を失った。それからというもの、私はサラリーマン生活がさっぱり厭になった。上…

名前のない手記(1)

〇 私は今、東京は台東区の日本堤にある「金本旅館」という簡易宿泊所の小さな寝床で筆を執っている。周りは静かである。相部屋の者たちは日雇いの仕事に出ている。明け方の薄明が窓から射し込む中、何者にも邪魔されることなく私は文をしたためている。 こ…

アルミニウム(7)

二人は小屋を出た。そして一言も交わさないまま順路を通って施設を出て、コインパーキングに停めてあったベンツに乗り込んだ。 ――ふぅ。じゃあ、家まで頼む。 Aは低い声でつぶやいた。 ――ちょっと歩いたお陰で、少し酔いが覚めたよ。 ――ホタル、綺麗でした…

アルミニウム(6)

Kは待機室でこぼした俺の言葉を反芻し、気持ちをいくらかでも察して、ホタルを見に行くなどという呑気な接待を承知したのだろうか。つまりは俺に対するいくらかの憐憫がKの胸に萌したのだろうか。Sは携帯電話をポケットにしまいながらフとそんな仮説を立…

アルミニウム(5)

SとRに念願の子が授かったのは二月の寒い日のことだった。それまで長年二人きりで暮らしてきただけに、こうのとりの来訪は二人を狂喜させた。しかし子は翌月に流れてしまった。美容師の仕事が肉体的にも精神的にもRにとって想像以上の負荷になっていたと…

アルミニウム(4)

Kは隣でスポーツ新聞をめくるSの腕を見て、ぼそりとつぶやいた。 ――武田さんの腕。ヒバクしたみたいだね。 Kはところどころ破れて中のスポンジが見えている黒いフェイクレザーのソファに偉そうに寝転がって、スマートフォンをいじくっていた。 ――縁起でも…