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名前のない手記(15)

 がんばって桜橋の方まで行こうと、人ごみをぬって歩いていたら、どこかから人の叫び声が聞こえてきた。なにごとかと思ったが、喧嘩だろうと合唱だろうと、このような夜ならさして珍しくはない。無視して行き過ぎようとしたが、「ホームレス!」だの「難民!」という罵声が聞こえてくるではないか。隅田川のホームレスと見物客がいさかいを起こしているな、と思った。巻き込まれるのはご免だったが、なんとなく他人事とも感じられなかったので、少しずつ近づき、人の頭と頭の間から騒ぎの中心を覗き見て、思わず息を呑んだ。
 そこでは泥酔し切った数人のホームレスが通りの真ん中に倒れ伏していて、浴衣を着た若い見物客たちと口論していた。状況から察するに、見物客が確保していた場所をホームレスが空いていると勘違いして居座ってしまったのだろう。若い男たちは「オレたちが押さえた場所……」とたびたび口にしていた。しかし私が思わず息を呑んだのは、そのホームレスたちの中に藤田君と眼鏡の中年男が混じっていたことである。二人――否、すでに「二人」は「集団」と化していたと観るべきか。この時の集団がどの程度まとまりのあるものだったか、私は今もって知らないが――はマイケル・ジャクソンが亡くなったころからずっと隅田川近辺でホームレス生活をしていたのだ。それにしても、ただホームレス生活をしていたならまだしも、酒に酔って人に迷惑をかけるなど、最低の人間のすることである。私は、地面に脚を伸ばして座りながら見物客を睨みつけている真っ赤な顔の藤田君を見て、顔をしかめた。だが、さらに顔をしかめたのは中年男の言動である。
「オメェら。女なんか連れてこれからどうしようっていうんだ。花火が終わったらどこ行くんだよ、兄ちゃん。えぇ?」
 周囲をはばからず、ニヤつきながら吐き捨てるように言った。藤田君と同じく顔は真っ赤であるが、なんとも厭らしい顔つきである。見物客とはそこから罵り合いとなった。中年男がどんな言葉を口走ったか、ここには書かないことにする。見物客が数組の男女であったのをいいことに、あらん限りの卑猥な言語を並べ立てたのである。そのあまりのえげつなさに周囲の客も身を乗り出し、ホームレス集団に罵声を浴びせ始めた。これがマズかった。
 客たちも酔っていた。その内の体格のいい一人の男が、中年男の隣に寝そべっていた藤田君のシャツの襟を掴んで怒鳴った。
「おい、くそったれホームレス。とっととダンボールの家へ帰れよ。ここはお前らみたいな貧乏人のいるところじゃねえんだ!」
 途端に藤田君は目を血走らせた。瞬間、私はゾッとした。