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名前のない手記(17)

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 ここで、藤田君と数ヶ月の間、生活を共にしていた中年男の笹本のことを補足しておく。この男のことなど書きたくもないが、藤田君の名誉のために多少は紙面を割いておく必要がある。
 ホームレス連中と見物客との乱闘の引き金を引いたのは、明らかに笹本である。笹本に卑猥な言葉を浴びせられたりしなければ、見物客たちは連中を「迷惑なホームレス」と片付け、夏の一夜を楽しめたはずである。
 一言で言えば、笹本は、人の人格が傷つくことを平気で口にする男である。それを大声でいうものだから、あの場ではなお具合が悪かったのである。
 藤田君の持つ酒癖が「キレる」ことであるなら、笹本の持つ酒癖は「嘲罵」である。ありったけの下劣な悪罵を相手に浴びせて、相手の精神を汚しつけるという、ヘドの出そうな酒癖である。
 私のサラリーマン時代にも同じようなことをする輩がいた。奴らは一様に、山谷の住人と同じように幼稚で、自分には「悪罵を口にする特権」とでもいうようなものが備わっていると信じて疑わないようだった。だから相手の人格が傷いても一向に申し訳なさを感じないのである。奴らにとっての「悪罵を口にする特権」とは、おおよそ立場的な優位を根拠にしているものと私には思われる。年齢、収入、容姿容貌など、比べることができるものについて、自分が優位に立っていると認識した時、奴らは完全に相手を見下し始める。その優位性が最も明確に現れるのは、言うまでもなく社内での役職や年齢の差異である。奴らは、自分の部下や後輩に対し「自分に嘲罵されなくてはならない」とでも思っているように、執拗に言葉の暴力を浴びせる。逆に自分の上司や先輩に対しては適度に部下・後輩として振る舞い、決して波風を立てない。今は「パワハラ」という概念が少しずつ定着しつつあるから奴らも思うように悪態を吐けないだろうが、少なくともバブル崩壊までの日本の企業社会では、ああいう愚劣な連中が社内で好き勝手に振舞っていたように私は思う。今でも、小規模な組織で運営している中小企業の中では同じような光景が繰り広げられているのかも知れない。