名前のない手記(19)

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 私は乱闘騒ぎの直後、藤田君を見つけた。藤田君は顔を紅潮させ、走りつかれて住宅街のゴミ置き場で倒れて眠っていた。
「愚かな男だ。このまま死んでしまった方がどれだけマシか解らない」
 私はそう思った。そして、そのように思って見棄てておけばよかったのだ。しかし、藤田君に一抹の憐憫を抱いた私は、倒れている藤田君の頬を叩き、起こした。
 瞼を開くと、充血したうつろな目が虚空を眺めていた。話しかけても、意識があるのか、声が聞こえているのどうかも解らない。「うぅ」とか「むぅ」とか唸るばかりである。私は藤田君の肩を持って立ち上がり、山谷への道を歩き出した。キツい体臭が私の鼻をついた。しかし、こんなにいい体格をした若者を、肩を担いで歩くことができるとは、日雇い労務の蓄積にもいくばくかの利点があったものだ、と思った。
 私は藤田君を連れて金本旅館へ帰った。ベッドは空いていたので、そこに藤田君を放り込むと、私は自分の寝床へ戻ってさっさと寝た。

 真夜中のドヤの天井を見ながら考えた。なぜ、藤田君を助けたのだろう。助ける理由など一つもないはずだった。あのままゴミ置き場に捨てておけばいずれ目を覚まし、怠惰な日々を過ごして、また同じような暴力沙汰を引き起こしてこんどこそ警察の御用になったことだろう。藤田君の場合、その方が更生するにはいい機会であったはずだ。私は彼に手を差し伸べてはみたものの、更生を指導しようなどとは少しも考えていない。更生させるつもりもないのに助けの手を伸ばすとは、まるで、私は彼を山谷の生活に引き戻そうとでもしているみたいではないか。藤田君に抱いた憐憫。この憐憫というものは、なんと厄介な感情なのか……。