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名前のない手記(13)

 すっかり長くなった髪をダラリと下ろしていて別人のようだったが、藤田君に違いなかった。酒に頬を赤らめていた。すっかりマイケル・ジャクソンになったつもりでいるのだろう。「Who's Bad!」とはマイケルの楽曲「BAD」の歌詞の一部である。マイケルと街のならず者らしき若者たちが廃墟のような場所で踊るミュージックビデオを、私も見たことがあった。しかし「BAD」のビデオにはムーンウォークのシーンはない。藤田君の踊りはでたらめだった。
「藤田ぁ。その踊りはどこで覚えたんだよ」
 中年男がぶっきらぼうに問いかけると、
「昔、ちょっとねぇ」
 と藤田君はふざけた口調で答え、開いた口から舌をベロンと出した。私が顔をしかめるほどの、愚劣の極致のような顔である。藤田君は明らかに泥酔していた。私は藤田君の変貌ぶりに唖然とした。この男が、数ヶ月前はわずかな愁いのようなものをその表情に残し、山谷でひっそりと日雇い労働に携わっていたあの藤田君なのだろうか。たしかに山谷の住人に特有の「莫迦のような笑い」が染み着いてきたときは胸の内で祝福したものだったが、ここまで急激に落魄してしまうとは予想しなかった。私はすっかり呆れた。ホームレスが最底辺なのではない。彼の顔と精神こそ最底辺なのだ。きっと、眼鏡の中年男と一緒に過ごす内に、精神が荒廃していったのだろう。なんとなく、この中年男とつるんでいたらそれもありそうなことだな、と私は感じた。
 そう思うと、途端に藤田君へのシンパシーは胸の中から消えていった。私は山谷へ帰った。