名前のない手記(23)

「ん? どうしてですか?」
 藤田君は目を丸めた。私は声を落として言った。
「こんな都会の掃き溜めのようなところで大切な時間を浪費するものじゃないよ。オレは正真正銘の落伍者だが、君にはまだまだ可能性がある。こんなところで過ごして将来を棒に振っては、あまりにもったいない」
 藤田君は私を見たまま黙り込んだ。眉間に寄った皺が、自分には処理できない提案をされたことを示していた。しかし私とて藤田君に無茶を言っていることは解っていた。
 大学で映像研究を学んだということは、多少はそういう道を志していたことだろう。それがどういうわけか派遣社員として望まぬ職場へ放り込まれ、懸命に働いた挙句、無残な首切りを食らって路上へ転がり出た。笹本の口車に乗せられて東京を流れた果ては隅田川へ漂着し、「Who’s Bad!」などと踊り狂う堕落ぶり。酒に酔って喧嘩をしかけ、あわや逮捕という救いようの無さ。かように転落に転落を繰り返したわけではあったものの、藤田君にはひとかどの素直さと無邪気さがあるようにも思われた。現在の境遇は決して藤田君自身の資質だけに起因するのではなく、世界不況やら派遣切りやらで暗くなった世相や、もろもろの不条理の犠牲になっているに過ぎない部分もあるのである。藤田君もよくぞあの場で「Who’s Bad!」と言ったものである。「悪いのは誰か?」。藤田君自身では決してない。
 藤田君は立ち直ることができる。志を立てて辛抱強く努力を続ければ、必ずや何らかの実りを得ることができるはずである。そしてその実りは山谷には存在しないものであろう。
「でも、山谷を出たって、何をどうすればいいか……」
 試験の難問に頭を抱える受験生のようだった。
 職を得るためにまずは住所を得ること、生活を立てるためには多少の貯蓄をすることを私は教えた。山谷ではよく、頭の悪そうな者同士が向かい合い、一方が相手に対し何やら小難しい言葉を並べ立てて延々と説教している図が見られる。人生がどうの、日本がどうのと飽きもせず語っているのだが、あれは要するに威張りたいのと聴きたいのとが互いの欲求を満たしているだけである。しかし、私は藤田君の未来を見据えて話した。この山谷から藤田君を送り出してやりたい気持ちだった。藤田君は困った顔をしながらも私の顔を真剣に見つつ、時おり頷いていた。

名前のない手記(22)

   〇

 それから数日後、タレントの酒井法子が逮捕された。覚せい剤取締法違反容疑とのことだ。藤田君と同じように「魔が差した」のである。しかし人間である以上、魔が差さぬことなどあろうはずはない。大切なのはどのように魔を飼い馴らして生きていくかということだ。方便は酒でも女でもギャンブルでもよかろう。なのに、藤田君も酒井法子も、度を過ぎたのである。魔に負けたのである。
 しかし、自分を打ち負かした魔への復讐は可能である。逮捕のニュースが世間をにぎわしていたころ、藤田君は日雇い労働に汗を流していた。目標を得たわけではなかったが、酒を飲み交わし、話していると、目に生気が甦ってきた気配があった。
酒井法子が逮捕されたね」
「驚きましたよ。僕が小学か中学のときのアイドルでしたから。それにしても、きっと芸能界の底流には麻薬組織の暗躍があるんでしょうね」
「かも知れないな」
「おそろピー!」
「なに、それ?」
のりピー語。『おそろしい』は『おそろピー』になるんですよ。昔けっこう流行りましたよ」
 「のりピー語」なるものに私はさっぱり興味がなかったが、それを口にした藤田君の顔には好感を持った。伸び放題の髪を後ろで束ねたまっさらな顔面は、いつぞやより格段にいい色艶をしていた。残暑の炎天下で働き、汗と共に魔も流れ落ちたのだろう。この時ばかりは私も、藤田君に抱いた憐憫もいくらか実ったものだとうれしかった。やけにカップ酒がうまかった。
「藤田君」
「はい?」
「山谷を出たらどうよ?」

名前のない手記(21)

 笹本は名を司といい、歳は四十代の半ばということだった。藤田君が勤めていた家電量販店で店長をしていた。笹本が藤田君に語ったところによれば、藤田君が派遣切りに遭ったすぐ後に店は経営上の理由により閉店。笹本も職を失った。クビである。その後、都内のネットカフェを転々としながら日雇い派遣で働いていたらしい。年末に仕事はなく、「年越し派遣村」に飢えをしのぎにきたところ、藤田君と再会した。過去のことで話が弾み、それ以降、生活を共にするようになった。その後二人して一度山谷に戻ったが、ある夜中、金本旅館の前で飲みながら辞めさせられた会社の悪口に盛り上がっていたところ、ホームレスと口論になって道端で喧嘩。これを機に山谷を後にした。あてどなく都内を彷徨した末に流れ着いたのが隅田川だった。……ここから先は、私も知っていることだった。

 藤田君の話を総合すると、笹本には人を嘲罵する酒癖がもともと備わっていたようだ。しかし、そんなことより私が気になったのは、藤田君の奇妙な真面目さと幼さである。「キレる若者」は普段はとても大人しいのだろう。否、藤田君は根からとても真面目なのである。思うに、笹本とつるむような人間ではない。ただし、その真面目さには毛筋ほどの――もうちょっと太いかも知れないが――隙間が空いている。きっと、藤田君は魔が差しやすいタイプの人間である。そして、その心の隙間に差し込んできた「魔」こそ笹本だったのである。藤田君が心ひそかに抱いていた、以前の勤め先への一抹の不満や恨みを、笹本は大声で代弁してみせたはずだ。笹本は藤田君には少しばかり「格好良く」映ったことだろう。それだけではない。笹本は恐らく、自分に付いてくることで何らかの利得があることを藤田君にほのめかし、東京中を連れ回したのであろう。事実はどうであろうと、多かれ少なかれ二人の関係はそのようなものであったに違いない。私は溜め息を吐いた。笹本が愚劣なら藤田君も低能そのものだ。なんら冒険的な要素もなく、かと言って色気も食い気も金もない、これほど無価値で無意義な漂流生活が他にあろうか。
 私はここでまた、藤田君に対して一抹の憐憫を抱いた。地に足がついていないばかりか、ひたすら堕ちていこうとしている彼を何とかして引っ張り上げる方法はないものか…。

名前のない手記(20)

 翌日、私が日雇いの仕事を終えて帰ってくると、なんと藤田君はまだ寝ていた。おばさんが言うには、日中に数度、起き出してきてはトイレで激しい嘔吐を繰り返していたとのことだ。昨夜は相当な量を飲んだようだ。
 私はいつものようにドヤ街の通りで住人たちとカップ酒をあおり、軽口を交わした。通りを照らす常夜灯の下で、煙草の煙と住人の下らない話に巻かれながら、莫迦のように笑った。
 金本旅館の方から、藤田君がフラつきながら歩いてきた。「やっと起きてきやがったか」と、私は煙草の煙と共に溜め息を吐いた。藤田君は私の呆れた顔を見ると、おおよその事情を悟ったとみえて、すぐに頭でお辞儀した。
「助けてくれたんですか?」
「オレがいなかったら、今ごろ留置所で両親と面会しているかもよ」
「すみません」
 藤田君は謝ると大きな溜め息をついた。息がやたら臭かった。私が顔をしかめると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「気分はどうよ?」
「すっかり、ゴミにでもなった気分ですね」
 そう自嘲する藤田君の目はわずかな悲しみの色を帯びていた。山谷の住人にはない愁いを持った顔だった。その時私は「かなり底辺まで堕ちたが、やはりこの男は完全にはホームレスになり切っていないようだ」と思った。
 ドヤ代は私が立て替えていたが、藤田君もいくばくかの金を携えていた。手持ちの金でドヤ代を払うと、「明日からは日雇いの仕事をしようと思う」と言った。私は、
「一緒にいたあの眼鏡の男は誰なの?」
 と笹本のことを聞いてみた。
「本当は、あの人と一緒にいる必要なんてなかったんですけれどね……」
 と、アスファルトに腰を下ろして煙草に火を点けた。ゆっくり、細くて長い煙を吹くと笹本のことを話し始めた。

名前のない手記(19)

   〇

 私は乱闘騒ぎの直後、藤田君を見つけた。藤田君は顔を紅潮させ、走りつかれて住宅街のゴミ置き場で倒れて眠っていた。
「愚かな男だ。このまま死んでしまった方がどれだけマシか解らない」
 私はそう思った。そして、そのように思って見棄てておけばよかったのだ。しかし、藤田君に一抹の憐憫を抱いた私は、倒れている藤田君の頬を叩き、起こした。
 瞼を開くと、充血したうつろな目が虚空を眺めていた。話しかけても、意識があるのか、声が聞こえているのどうかも解らない。「うぅ」とか「むぅ」とか唸るばかりである。私は藤田君の肩を持って立ち上がり、山谷への道を歩き出した。キツい体臭が私の鼻をついた。しかし、こんなにいい体格をした若者を、肩を担いで歩くことができるとは、日雇い労務の蓄積にもいくばくかの利点があったものだ、と思った。
 私は藤田君を連れて金本旅館へ帰った。ベッドは空いていたので、そこに藤田君を放り込むと、私は自分の寝床へ戻ってさっさと寝た。

 真夜中のドヤの天井を見ながら考えた。なぜ、藤田君を助けたのだろう。助ける理由など一つもないはずだった。あのままゴミ置き場に捨てておけばいずれ目を覚まし、怠惰な日々を過ごして、また同じような暴力沙汰を引き起こしてこんどこそ警察の御用になったことだろう。藤田君の場合、その方が更生するにはいい機会であったはずだ。私は彼に手を差し伸べてはみたものの、更生を指導しようなどとは少しも考えていない。更生させるつもりもないのに助けの手を伸ばすとは、まるで、私は彼を山谷の生活に引き戻そうとでもしているみたいではないか。藤田君に抱いた憐憫。この憐憫というものは、なんと厄介な感情なのか……。

名前のない手記(18)

 「バブル」。そうなのだ。奴らのもう一つの共通項は、戦後すぐか高度成長のただ中に生まれ、バブルの絶頂へ向かう「日本の上昇気流」をもろに浴びて育った世代であることだ。奴らにとっては「明日はもっと良く」ならなくてはならず、働く者はすべからくその成長論理に全精力を傾注すべきなのである。私のもっとも嫌いな思想だ。「もっと良い明日」とは何か? 月並みな言い方だが、それは空虚な「物質的な豊かさ」に他ならない。そして獲得された「豊かさ」は、山谷の住人のそれとはまた違う「莫迦のような笑い」に現され、消費されるのだ。会社が伸びざかりのさなか、高級酒を茶のように飲んで戯れる同僚の「莫迦のような笑い」を、私はどれだけ見てきたことか。
 笹本の思想は莫迦の思想なのである。しかし問題はそんなことではない。「もっと良い明日」に準拠しないものに対する「悪罵を口にする特権」。これによって、数多の不幸や悲しみやトラウマが生まれたであろう。私が山谷へ転落したことも――私は豊かな生活に悔いや未練はないが――その具体例の一つなのではないかと私は考える。付け足すと、藤田君の転落もそれらの不幸の残りカスのようなものではないかとも、私は考える。
 笹本のことをこのように分析したのは、花火大会からずっと後のことである。

名前のない手記(17)

   〇

 ここで、藤田君と数ヶ月の間、生活を共にしていた中年男の笹本のことを補足しておく。この男のことなど書きたくもないが、藤田君の名誉のために多少は紙面を割いておく必要がある。
 ホームレス連中と見物客との乱闘の引き金を引いたのは、明らかに笹本である。笹本に卑猥な言葉を浴びせられたりしなければ、見物客たちは連中を「迷惑なホームレス」と片付け、夏の一夜を楽しめたはずである。
 一言で言えば、笹本は、人の人格が傷つくことを平気で口にする男である。それを大声でいうものだから、あの場ではなお具合が悪かったのである。
 藤田君の持つ酒癖が「キレる」ことであるなら、笹本の持つ酒癖は「嘲罵」である。ありったけの下劣な悪罵を相手に浴びせて、相手の精神を汚しつけるという、ヘドの出そうな酒癖である。
 私のサラリーマン時代にも同じようなことをする輩がいた。奴らは一様に、山谷の住人と同じように幼稚で、自分には「悪罵を口にする特権」とでもいうようなものが備わっていると信じて疑わないようだった。だから相手の人格が傷いても一向に申し訳なさを感じないのである。奴らにとっての「悪罵を口にする特権」とは、おおよそ立場的な優位を根拠にしているものと私には思われる。年齢、収入、容姿容貌など、比べることができるものについて、自分が優位に立っていると認識した時、奴らは完全に相手を見下し始める。その優位性が最も明確に現れるのは、言うまでもなく社内での役職や年齢の差異である。奴らは、自分の部下や後輩に対し「自分に嘲罵されなくてはならない」とでも思っているように、執拗に言葉の暴力を浴びせる。逆に自分の上司や先輩に対しては適度に部下・後輩として振る舞い、決して波風を立てない。今は「パワハラ」という概念が少しずつ定着しつつあるから奴らも思うように悪態を吐けないだろうが、少なくともバブル崩壊までの日本の企業社会では、ああいう愚劣な連中が社内で好き勝手に振舞っていたように私は思う。今でも、小規模な組織で運営している中小企業の中では同じような光景が繰り広げられているのかも知れない。