名前のない手記(12)

 高層ビル群が雨上がりの西日を浴びて橙に照っていた。雨上がりのトワイライトタイムほど素敵な時間はない。私は心を小躍りさせながら日本堤から隅田川までを歩いた。川べりまで出ると、桜橋を目指してぶらぶらした。
 ここは東京有数のホームレスたちの住処である。ブルーシートにくるまれたほったて小屋が連なり、その中には私以上に「敗北」した落伍者が暮らしている。私は日雇いとはいえ仕事をして報酬を得、その金で飲み食いと寝る場所を確保しているが、ここに住む者たちのほとんどは仕事がない。つまり金もない。したがって飲食はゴミをあさって行う。ドヤ暮らしの生活とて真の最底辺ではない。人間の世界でもっとも惨めな部類に属するのは、ホームレスだ。
 かくいう私も十数年後には彼らの仲間入りを果たすことだろう。その内に足腰が肉体労働の使い物にならなくなったら、ドヤを後にすることになる。そうしたらここへ来て、残飯やら落ちたゴミを拾って生きることになるに違いない。そのような未来――末路というべきか――は、とっくに推し量ってある。
「オレの終の棲家になる場所だな……」
 と、ひとりごちた。トワイライトタイムの陶酔はどこへやら、ブルーシートを見たら途端に現実に引き戻された。歩くのも厭になったから部屋で本でも読もうと思い、踵を返そうとした時である。ブルーシートの脇で数人が一緒に酒を飲んでいて、中に一人、陽気に踊っている男がいた。どう見ても酔っ払っているが、身のこなしからしてここらのホームレスよりはるかに若い男であることが知れた。すでにたそがれ時で顔がよく見えないが、長髪を振り乱して阿呆みたいに踊っている様は、どうやらマイケル・ジャクソンを意識してのことであるらしかった。男がアスファルトの上で見事なムーンウォークを披露すると、酔っ払い連中は歓喜の声を上げた。その時私は瞠目した。ゲラゲラ笑う男たちの中にあの中年男がいたのである。大口を開いて出っ歯を曝し、眼鏡の奥の小さな目をなくして莫迦のように笑うあの顔は強く印象に残っていた。派遣村で藤田君と一緒にいたあの男だ。そして、ということは、目の前でマイケル・ジャクソンの物まねをする男こそ藤田君であるに違いないと、私は思った。しかし、見れば見るほど、およそたそがれの隅田川べりには似つかわしからぬ奇怪な光景であった。
「Who's Bad!」
 男は踊りのフィニッシュを決めた。