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名前のない手記(21)

 笹本は名を司といい、歳は四十代の半ばということだった。藤田君が勤めていた家電量販店で店長をしていた。笹本が藤田君に語ったところによれば、藤田君が派遣切りに遭ったすぐ後に店は経営上の理由により閉店。笹本も職を失った。クビである。その後、都内のネットカフェを転々としながら日雇い派遣で働いていたらしい。年末に仕事はなく、「年越し派遣村」に飢えをしのぎにきたところ、藤田君と再会した。過去のことで話が弾み、それ以降、生活を共にするようになった。その後二人して一度山谷に戻ったが、ある夜中、金本旅館の前で飲みながら辞めさせられた会社の悪口に盛り上がっていたところ、ホームレスと口論になって道端で喧嘩。これを機に山谷を後にした。あてどなく都内を彷徨した末に流れ着いたのが隅田川だった。……ここから先は、私も知っていることだった。

 藤田君の話を総合すると、笹本には人を嘲罵する酒癖がもともと備わっていたようだ。しかし、そんなことより私が気になったのは、藤田君の奇妙な真面目さと幼さである。「キレる若者」は普段はとても大人しいのだろう。否、藤田君は根からとても真面目なのである。思うに、笹本とつるむような人間ではない。ただし、その真面目さには毛筋ほどの――もうちょっと太いかも知れないが――隙間が空いている。きっと、藤田君は魔が差しやすいタイプの人間である。そして、その心の隙間に差し込んできた「魔」こそ笹本だったのである。藤田君が心ひそかに抱いていた、以前の勤め先への一抹の不満や恨みを、笹本は大声で代弁してみせたはずだ。笹本は藤田君には少しばかり「格好良く」映ったことだろう。それだけではない。笹本は恐らく、自分に付いてくることで何らかの利得があることを藤田君にほのめかし、東京中を連れ回したのであろう。事実はどうであろうと、多かれ少なかれ二人の関係はそのようなものであったに違いない。私は溜め息を吐いた。笹本が愚劣なら藤田君も低能そのものだ。なんら冒険的な要素もなく、かと言って色気も食い気も金もない、これほど無価値で無意義な漂流生活が他にあろうか。
 私はここでまた、藤田君に対して一抹の憐憫を抱いた。地に足がついていないばかりか、ひたすら堕ちていこうとしている彼を何とかして引っ張り上げる方法はないものか…。