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名前のない手記(25)

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 私は今、金本旅館の一室で筆を執っている。九月になったが、暑さは一向に衰えを見せない。周りは静かである。筆を執っている間に、労働者たちは日雇いの仕事を終えて帰ってきて、酒と肴を食らって寝た。彼らとは変わらず意味のない言葉を交わすが、もはや藤田君と笹本のことを口にする者はない。二人は、きれいさっぱり山谷から姿を消した。
 先ほど、酒井法子が保釈されたというニュースを聞いた。これからアイドルはファンに向けて立ち直りの物語を演じていくことになる。しかし藤田君が立ち直った姿を私に見せてくれることは、もはや永遠にないであろう。

 今から半月ほど前の八月三十日、衆議院議員の総選挙が行われた。自民党が歴史的な敗北を喫し、民主党が政権を得た。世間は政権交代の実現に沸きかえっていたようだが、私は特に生活が変わるとも思われないのでさほど興味がなかった。あるとすれば、藤田君の将来の暮らしにどれだけの寄与があるかということだった。
 藤田君は少し前から貯蓄を開始していた。「口座を作ることはできないから、自分にしか解らない場所にこっそり隠してあるんです」と私に打ち明けた。笹本とは付かず離れずの関係を続けていたようだった。
 笹本の方は自堕落な生活を一向に変えることなく過ごしているようだった。日雇いで稼いだ金はギャンブルと酒に費やし、雨が降って仕事がなければドヤの仲間たちとアーケードの下で将棋をしたり飲んだくれたりしていた。私は何回か、笹本が例の悪罵を仲間に浴びせているのを見かけたことがある。藤田君とも時には会ったり飲んだりしていたようだ。そして、自民党が負けたその夜も、二人は数人の仲間たちと酒を飲み交わしていた。
 私が自室で不穏な騒ぎ声を聞き、アーケード下へ駆けつけた時、笹本はすでに動かなくなっていた。傍らには、仲間に押さえられた藤田君がいた。手には血のついた包丁を持ち、服にはたくさんの返り血が付いていた。顔はひどく紅潮していた。