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名前のない手記(11)

 それきり、藤田君とも連絡が途切れてしまい、数ヶ月が過ぎた。私はこれまで通り金本旅館に暮らし、日雇い労働を続けた。昼は建設現場で砂埃にまみれ、夜になれば酒をあおり、金が貯まれば風俗店へ出かけて女を買う。そしてただ時間ばかりが過ぎていく。その他は何も変わらない。ドヤの労務者たちの莫迦な顔も変わらない。
 それまで、数人くらい藤田君くらいの間柄にまでなった者はいた。しかしこの山谷ではたとえどのような間柄に発展しようと、ある日、突然その間柄が消滅することはよくあることだった。山谷を去った者だけがその事情を知っていて、山谷に残った者にはその事情を知る術はない。だから私のように山谷でいつまでも生きていこうと思っている人間には、それらの事情を知ることも、体験することも未来に決してないであろうと思われる。事情とは、就職か、結婚か。当然ながら私には知る由もない。
 藤田君の事情とは、果たしてなんだったのだろう。少なくともあの中年男が鍵になっていることは間違いなさそうだが……。そんな述懐を残したきり、藤田君の記憶はだんだんと薄れていった。

 藤田君と再会したのは、私の頭から藤田君の記憶が消えそうになっていた六月のことだ。再会といっても、私の方が一方的に彼の姿を認めただけだが。
 その日は雨が降っていた。仕事へは行かず、金本旅館のロビーでテレビを見ていた。ニュースでマイケル・ジャクソンの死を報じていた。マイケル・ジャクソンと言えば、あの映画に詳しい青年が酔っ払いながらその名をつぶやいていたっけ……と思った。
 退屈な午後は、金本旅館の一室で読書しながら過ごした。読んでいたのは永井荷風の『すみだ川』で、読み進むうちに私はふと、隅田川べりを歩いてみたくなり、寝床を出て窓の外を見ると雨はやんでいたので、「よぅし」と思った。