名前のない手記(20)

 翌日、私が日雇いの仕事を終えて帰ってくると、なんと藤田君はまだ寝ていた。おばさんが言うには、日中に数度、起き出してきてはトイレで激しい嘔吐を繰り返していたとのことだ。昨夜は相当な量を飲んだようだ。
 私はいつものようにドヤ街の通りで住人たちとカップ酒をあおり、軽口を交わした。通りを照らす常夜灯の下で、煙草の煙と住人の下らない話に巻かれながら、莫迦のように笑った。
 金本旅館の方から、藤田君がフラつきながら歩いてきた。「やっと起きてきやがったか」と、私は煙草の煙と共に溜め息を吐いた。藤田君は私の呆れた顔を見ると、おおよその事情を悟ったとみえて、すぐに頭でお辞儀した。
「助けてくれたんですか?」
「オレがいなかったら、今ごろ留置所で両親と面会しているかもよ」
「すみません」
 藤田君は謝ると大きな溜め息をついた。息がやたら臭かった。私が顔をしかめると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「気分はどうよ?」
「すっかり、ゴミにでもなった気分ですね」
 そう自嘲する藤田君の目はわずかな悲しみの色を帯びていた。山谷の住人にはない愁いを持った顔だった。その時私は「かなり底辺まで堕ちたが、やはりこの男は完全にはホームレスになり切っていないようだ」と思った。
 ドヤ代は私が立て替えていたが、藤田君もいくばくかの金を携えていた。手持ちの金でドヤ代を払うと、「明日からは日雇いの仕事をしようと思う」と言った。私は、
「一緒にいたあの眼鏡の男は誰なの?」
 と笹本のことを聞いてみた。
「本当は、あの人と一緒にいる必要なんてなかったんですけれどね……」
 と、アスファルトに腰を下ろして煙草に火を点けた。ゆっくり、細くて長い煙を吹くと笹本のことを話し始めた。