名前のない手記(22)

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 それから数日後、タレントの酒井法子が逮捕された。覚せい剤取締法違反容疑とのことだ。藤田君と同じように「魔が差した」のである。しかし人間である以上、魔が差さぬことなどあろうはずはない。大切なのはどのように魔を飼い馴らして生きていくかということだ。方便は酒でも女でもギャンブルでもよかろう。なのに、藤田君も酒井法子も、度を過ぎたのである。魔に負けたのである。
 しかし、自分を打ち負かした魔への復讐は可能である。逮捕のニュースが世間をにぎわしていたころ、藤田君は日雇い労働に汗を流していた。目標を得たわけではなかったが、酒を飲み交わし、話していると、目に生気が甦ってきた気配があった。
酒井法子が逮捕されたね」
「驚きましたよ。僕が小学か中学のときのアイドルでしたから。それにしても、きっと芸能界の底流には麻薬組織の暗躍があるんでしょうね」
「かも知れないな」
「おそろピー!」
「なに、それ?」
のりピー語。『おそろしい』は『おそろピー』になるんですよ。昔けっこう流行りましたよ」
 「のりピー語」なるものに私はさっぱり興味がなかったが、それを口にした藤田君の顔には好感を持った。伸び放題の髪を後ろで束ねたまっさらな顔面は、いつぞやより格段にいい色艶をしていた。残暑の炎天下で働き、汗と共に魔も流れ落ちたのだろう。この時ばかりは私も、藤田君に抱いた憐憫もいくらか実ったものだとうれしかった。やけにカップ酒がうまかった。
「藤田君」
「はい?」
「山谷を出たらどうよ?」