名前のない手記(10)

 日比谷公園での暮らしはそれから数日間つづき、年明け早々に派遣村は閉じた。その数日間、私は藤田君と中年男の姿を見ることなく過ごした。
 派遣村を後にした私は山谷へ帰り、再び金本旅館に入った。以前とは違う部屋をあてがわれた。山谷のドヤは人の入れ替わりが激しいから、これは当然のことだった。藤田君はあれからどうなったのだろうと思い、旅館のおばさんに聞くと、
「ああ、あの若い人ならちょっと前に出てったわよ。眼鏡をかけた変なオヤジと一緒だったねぇ」
 とっさに、あの中年男か、と思った。一緒にこの旅館へ来て一緒に出て行ったということは、今でも行動を共にしている可能性がある。ひょっとしたら、父親かも知れない。
「オヤジっていうのは、藤田という名前じゃないか?」
「知らないわよ。ここじゃ名前なんてあってないようなものでしょう」
 たしかに山谷では偽名を使って過ごしている者が多い。多いというより、私の知っている名前がどれだけ本名であるのか、私も知らない。中年男がこの旅館での数日間をどんな名前で過ごしていたとしても、それは何を示すわけでもないのである。
「出て行く前の夜に、若い人と一緒に前の通りで酔っ払いと大喧嘩したんだよ。騒ぎはゴメンだからね。二人にはキツく言ったんだけど。そうしたら出て行った」
 喧嘩の原因はおばさんも知らなかった。それ以上、中年男に関する情報は手に入らなかった。