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名前のない手記(2)

 ここで私自身のことを、必要なだけ記しておくことにする。私はすでに五十歳代に差しかかろうという中年の男である。三十歳代の終わりごろ、それまで数年間つづけてきた結婚生活を失った。それからというもの、私はサラリーマン生活がさっぱり厭になった。上司や先輩に気を遣い、客に愛想を振りまき、定時に会社へ出て定時に会社を出る、そして月に一度給料を得て、生活を組み立てる。そのような社会人としての当たり前の暮らしというものが、「結婚」の二文字が無くなった時から、なんだか阿呆らしいものにしか感じなくなった。かと言って、振り返ってみると、かつての妻だった女性との愛が、私が社会生活を営む根拠の全てだったとも思えない。将来に望む夢や目標もなく、生活に一本通しておきたい筋だとか志だとかいうものも特になく、ただその日その日を適度に、激しい喜びも深い苦しみもないまま漫然と過ごしていた私にとって、結婚もただの建前に過ぎなかったのだろう。だから私という人間の生活のどこかに楔のように刺さっていた「結婚」の二文字がポロリと落ちた時、私の社会人としての人生はごく自然に崩れ去ったのだ。会社や同僚や世の中への恨みもない。去った女性への悔いもない。ただ一切は風のように私の眼前を過ぎていった。私自身も風に舞う枯葉のように宙をただよい、やがて、東京の淀んだ淵のような山谷という一角へ降り立ったというわけだ。この薄汚い街こそ、私にもっともふさわしい住処であると思える。先ほど「サラリーマン生活がさっぱり厭になった」と書いたが、嫌悪したというよりは忌避したという方が近い。学生のころはさほどでもなかったものの、社会へ出てから、私は軽いうつ状態が続いていたと思う。目標に胸を燃やすこともなく、会社や上司の理不尽さに怒りを爆発させることもなかった。なるべく波風の立たぬように身辺を整理し、小さく小さく生きていたのである。それでも尚私は社会人として当然果たさなくてはならないもろもろの責任に憔悴していた。辛かった。なぜ辛かったのかは解らない。きっと、精神が薄弱なだけなのである。そういう私にとって、この山谷という街は住み心地の良いものだった。ここでは自主性や責任や誇りや志の一切が不要なのだから。
 誰かが私のことを卑怯だとか怠惰だとか臆病だとか言おうが、私は構わない。否定する積りもなく、実際にその通りだろうと思う。もとより筆を執った理由は私のことを誰かに伝えるためではなく、藤田君のことを書き留めておきたいからである。