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名前のない手記(7)

 藤田君はまた宙を見ていた。目を細めていた。
「彼女とは職場で一緒だったんですけど、僕の方は派遣社員だったんですよ。結婚の約束は正社員になることを前提にしていて。でも、この間、クビになった。それと一緒に、結婚の夢も消えちゃいました」
「………」
 私たちはそれきり黙った。夜風がアスファルトの上のカップを転がした。ガラスがコロコロ鳴った。
 私はそれ以上何も言わなかった。藤田君への憐憫がそうさせたわけではない。むしろ、なぜ二人の人生が正社員という肩書きを前提にしなくてはならなかったのかに憤りをおぼえた。が、それを露にしては角が立つ。
 なぜ、勝ちが至上の価値としてまかりとおるのか。競争は悪ではない。ただし勝ちへの執着は不幸しか生まない。なぜ藤田君は意気消沈しているのか、理由は簡単である。結婚を喪失したからである。そして喪失が敗北という負の観念に直結しているからである。だが、私は敗北にこそ人生の神秘があるように思う。これは負け惜しみではない。私は結婚を喪失し、会社を辞め、山谷へ至った。だが、今でも簡易宿泊所から見上げる都内の高層マンションには一抹の羨望も感じない。物質的に貧しくなったことにも悔いはない。日雇い労務者としての山谷での暮らし。静かで、気取りなく、未来もない暮らし。これは他でもない敗北によって手にしたものだ。藤田君は、まだ敗北を受け入れられないでいる。悔いがあるのだ。悔いがあるからから苦しいのだ。
 ともあれ、それまで藤田君はただのドヤの相部屋の男だったが、結婚を喪失した敗者という、自分と同じ烙印を持つ男として記憶された。