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オレ

「彼の衣服の糸一筋も――いや、彼のあの特異な容貌の線一本も、それは実にそっくりそのまま『僕自身の』でないものはなかったのだ!」―ポオ『ウィリアム・ウィルソン』(中野好夫訳)

  十二月のある昼のことである。都内の広告代理店「セントス」のオフィスで昼休憩にワイドショーを見ていた社員たちは一様に驚かざるを得なかった。会社の営業である高田久志が、他殺体となって発見されたのである。殺されたのは昨夜の十一時過ぎ。どうやら金属バットのような固い物で頭を殴られたらしく、数分間、事件現場である住宅街の中の公園の土の上をのたうちまわった後に死んだ。早朝の散歩者が第一に発見した。
 セントスは震撼した。事業への大きな影響はないものの、高田の死に涙する者、溜め息一つで過ごす者、トップセールスの一人がいなくなったことを残念がる管理職者などがあった。もっとも、一部の社員は警察からの電話で高田の死を知っていた。大きなセントス全体に情報が行き渡るのに、結果としてワイドショーがもっとも手っ取り早かったのだ。
 ニュースでは高田の妻の証言が放送された。仕事を終えた夫からの電話はこうだった。
「佐藤と飲んでから帰るから」
 どの店へ行ったのかは不明であるが、佐藤と言えばセントスには二人しかいなかった。清掃パートで朝から昼へかけてフロアを掃除する五十過ぎの女清掃員と、高田と同じ営業職である佐藤優介であった。ニュースを見た社員たちはすぐに自分の同僚の顔を思い浮かべたが、同時に佐藤の昨日の言葉をも思い出した。
「今夜は接待です。直帰しますんで、よろしく!」
 佐藤は高田の死が報じられたその日は、朝から得意先の書店へ直行していた。夕方、帰るなり同僚の疑惑の視線を浴びると共に、オフィスの控え室に待ち構えていた警察の尋問を受けることになった。事件のことを知るなり、ハトが豆鉄砲を喰らったような顔をした。
「えッ! 高田が!?」
 佐藤は尋問に答えた。佐藤は昨夜、高田が死んだ時間帯には本当に接待をしていた。営業先の部長とスナックで飲んでいたのである。佐藤が出した店の領収書で納得しなかった警察はスナックへ行き調べたが、佐藤の証言に間違いはなかった。スナックの従業員が、佐藤がカラオケで歌った「どんなときも」を聴いていた上に、エレベーターの監視カメラにも佐藤と部長の姿がしっかりと映っていたからであった。
 こうして警察は捜査の目を他へ向け、同僚たちも事件から仕事へ関心を戻していった。
「ふざけるな、どうして俺が同僚を殺すってんだよ!」
 佐藤のイライラは止まらなかった。
 佐藤はセントスにおいて、死んだ高田と肩を並べるトップセールスの一人だった。入社して六年目、二十八歳。遊び好きの高田に比べて勤勉な仕事ぶりの佐藤は営業部長のお気に入りだった。四年前に結婚し、来年の夏には長女が生まれる予定だった。同僚とは笑顔で軽口を叩き合いながら仕事し、新入社員の女性たちからも人気が高かった。高校時代はバスケ部で背が高く、営業先で一目で担当者に覚えてもらえることがその成績に良く影響していたのは言うまでもない。短髪で面長、表情は柔らかくて尖った部分はなく、性格も穏やかで快活だった。要するに、典型的な「感じのいい営業マン」と言えばセントスでは佐藤がもっとも当てはまっていた。
 しかし、ちょっと極端とも言える仕事主義者ぶりは、時に同僚たちから敬遠されていた。セントスが本来九時出社のところを佐藤はほぼ毎日六時に出社していた。書類の整理やらメールの返信などして、皆が出社するころには出発の準備が整っていた。一番に会社を出、一番に会社へ帰って来ていた。そしてしっかり仕事を取ってくるわけである。「毎日どうやって過ごしてるんスか?」という後輩の質問に対して、ニッと得意な笑みを見せて佐藤優介はこう答えたことがある。
「毎日十一時に寝て、四時に起きる!」
 「佐藤の奥さんも大変だろうな」と噂される妻の恵美は、セントスの元社員である。そして、佐藤と結婚する前は、高田と付き合っていた。だから恵美が佐藤と結婚した時、同僚たちはそっと高田の顔色を窺ったものだった。しかし高田と言えば、なんら意に介する様子はなかった。高田は、佐藤に恵美を勝ち取られたことへの痛手などなかったばかりか、営業先の方々で浮き名を流していたのである。顧客の担当者が女性である場合、仕事以外の関係が発生していることが少なくなかった。それでいて高田は既婚、営業成績も佐藤に勝るとも劣らない「スタイリスト」だったわけである。
 警察の捜査は難航した。唯一、ホームレスによる証言があった。
「黒いスーツを着たやけにデカいやつ」
 その人は、高田が殺された夜、確かに高田と一緒に公園に入って来たらしい。ホームレスはそこまでしか知らなかった。
 そんな中、一つの奇妙な事態が起きた。
 仕事を終えて家に帰ると、恵美が泣いていた。佐藤が話しかけると、変なことを口にした。
「……お腹の子は、私たちの子よ。私たちの子よ……」
「え……?」
「怒って出て行ったのに、どうして平気な顔して帰ってくるの?……」
 それきり恵美は寝室へ消えて行った。佐藤はポカンとした。
 翌日、ふたたび警察による尋問があった。ホームレスの証言によると、高田と一緒に公園へ来た「黒いスーツ」の男は身長が一八〇センチ前後。そして、高田と男が交わしていたという会話が、佐藤へふたたび疑惑の目を向けさせたのである。

「ユウスケ、エミはいい女だろ。ふふ。ま、幸せな家庭をつくれよ」
「うるせぇ。お前がまだエミと出来てるの、知ってんだ」

 佐藤は驚いた。
「し、知りませんよ。ユウスケだってエミだって、世間にはいくらでもいるじゃないですか!」
「でもですね、高田さんを中心に考えると、それがあなたとあなたの奥さんであることはほぼ間違いないんです」
「あ、あんた、いい加減にしろ! 俺が高田を殺すわけがないだろ!」
 佐藤の怒号にセントスのフロアは不気味に沈黙した。
 アリバイの証明のために、営業先の、事件の夜に一緒にスナックで飲んだ部長の証言をもらうことになった。部長は笑っていたが、佐藤へ向けた一寸の疑いの目を、佐藤は見逃さなかった。仕事がボツになるかも知れない、と佐藤は考えた。胸の中で怒りが沸き起こった。
 家に帰ると、恵美はいなかった。「子どもは一人で生みます」と書かれた置き手紙のみがテーブルに残されていた。
 佐藤は思い切りテーブルを殴った。あまりの苛立ちと不可解さに、歯をギリギリとさせた。
 佐藤は考えた。考えに考えた。考えれば考えるほど、不安になり、額から汗がにじみ出た。 自分が社会へ出てから築いてきた物が、音を立てて崩れようとしているかに思われた。
 一体だれが、だれがオレを陥れようとしているのか……。
 自分で事件の捜査をするより他はなかったが、夜十一時になるとベッドに入りたくなってきた。恵美との結婚を決めてからかれこれ五年、ほとんど自動的にさえなって来ている自分の生活習慣が憎くなってきた。
 思い切って、というよりぐちゃぐちゃになった頭の中をどうにかしようと、佐藤はドアを破るようにして、かつて行きつけだった居酒屋へ行くことにした。
 しかし、そこでもまた懐かしいママに意外なことを言われた。
「ははは。あなた、ちょっと前に二軒目に行くって出てったばっかりじゃない」
「!!」
 佐藤は拳銃で撃たれたかのようにその場から後ずさりし、地面に転んだ。空いた口と目が塞がらなかった。鬱憤を晴らそうと酒を飲むどころではなくなった。佐藤は咄嗟に推理した。もしも「オレ」がもう一人、この街で飲み歩いているならば、二軒はしごした後に住宅街の公園でウィスキーの小瓶を空けているに違いない。なぜなら、恵美と将来を決意する前、まだまだ仕事がろくに出来なかった時期はつねにそうして仕事の憂さを晴らしていたからだ。そういえば、高田が死んだ公園はその公園だったと、佐藤は走りながら気付いた。
 公園に着くと、月明かりに照らされたベンチに、黒いスーツを着た一人の男がウィスキーの小瓶を片手に、座っていた。佐藤の息を切らす声を聞いて、顔をもたげた。するとその顔も、表情も、体型といい髪型といい、なに一つ佐藤と同じでないものはなかった。
「お、お前は……誰だ」
 その男はニタリと笑った。そうして、なんと、佐藤と目を合わせると共に、次第に月の光にかき消されるように、その姿は消滅していったのである。最後に、佐藤の心をえぐり取るような、次のような奇怪な言葉を残して。

 よお、オレよ。そんな真面目ぶった、シケたツラしてんじゃねぇよ。テメェ、恵美が高田と浮気してたことも、恵美のお腹の子どもが高田の子だってことも、本当は知ってやがったくせに。仕事、仕事、仕事……フン、くだらねぇ。もっと愉快に生きりゃぁいいじゃねぇか。昔のお前はもっと魅力的だったよな。バスケやって、女にモテて。なんて言うかさ、肩で風を切ってたよ。何がお前を変えたんだ。出世か? 結婚か? スウィートホームか? 大人の夢なんざ、イチバン下らねぇことと思ってたじゃねぇか。
 あんまり見てられなかったもんだから、オレがお前のやりてぇことをやったんだ。でもよ、そのうち警察が来ちまうぜ。高田の頭をかち割った金属バット、ホームレスが見つけちまった。ま、隠す気はなかったんだが…。オレたち、身体は別々になれても、指紋までは別々になれなかったんだ。ハハハハハ。どうしてかって、これは否定できない事実さ。お前はオレで、オレはお前なんだからな!

 

  おわり