似顔絵師(5)

 引き継ぎはその後、何の支障もなく進んだ。どの得意先でも、「わらびストアーズ」のように清次の退任が必要以上に惜しまれることはなかった。引き継ぎの帰り道の車中で、清次は「ああまであっさり了解されても、悲しいものだよな」と苦笑していた。
 一方で昭男は引き継ぎに対し、むずがゆい二律背反があった。次第に盛り上がってくる年末商戦の熱気に乗り遅れまいと焦るために感じる面倒くささと、刻一刻と退社の迫る清次ともっとじっくり話したいという焦燥とが入り混じっていた。
 しかしながら、年末商戦への意気はともかくとして、清次に感じる焦りのようなものは何か。昭男は時おり自分の心をたずねてみるものの、その正体をつかみかねていた。

「淀川、『さいたまフーズ』さんから電話!」
「はあい。……なんだろう?」
 昭男の勝負は、あゆみがつないでくれた電話から始まった。
 先日、清次から昭男にスイッチした郊外型の巨大スーパー「さいたまフーズ」は、取り引き先数社から年末の大売り出しを盛り上げる企画を待ち望んでいるという。「TKさんも、何か考えてくれないかな」ということだった。
 昭男はにわかに奮起した。上野に同行を乞うて「さいたまフーズ」を訪ね、大売り出しや担当者の意向、競合の出方などをこまかく聞いた。「さいたまフーズ」は各店舗でドリンクコーナーを広く設けている。企画が通れば、一気に売り上げを伸ばす大型受注になる。帰り道で上野は「淀川。一発いけるチャンスやで。おもろなってきたな」とつぶやいた。昭男は大きく頷き、ハンドルを握る手に力が入った。
 さっそく社内で第一グループが集い、作戦会議が開かれた。スーパー利用客の年齢層や所得などから、どんな手法ならドリンクが目につきやすく、手に取ってもらいやすいか、またそもそもスーパーへ入ってきた客がどんな経路でドリンクコーナーに向かうか…などなどなど、売り場と買い物客を分析し、最適な販促プランを検討していった。
 前任という理由で清次も会議の末席に加わっていた。「さいたまフーズ」がどのような企画を好むか、担当者の性格や好み、競合との付き合いのほどなど、清次でなければわからない情報で、新担当としてまだ日の浅い昭男の知識を補充した。会議は深夜にまでおよび、第一グループメンバーは皆、終電で帰宅したばかりか、自宅に歩いて帰れる昭男にいたっては日付が変わっても社内に残り、企画を練り続けた。
 上野は帰る間際、昭男にこう言い残した。
「営業ほどおもろいもんはないやろ。若いうちにその醍醐味をよう味わっとけよ」
「はい!」
 昭男は燃えに燃えた。
 「さいたまフーズ」のすべての直営店に頻繁に足を運び、売り場を見て回った。一方で自分がかねてから担当している都心の大手小売店への営業活動も一切怠らなかった。師走に差し掛かり、世間はクリスマスだの正月だのと浮かれてきたが、昭男はさらに熱く、都心と埼玉を駆け回っていた。清次のことなどどこかへ消えていた。
 昭男が苦心の末に練り上げた企画は、「おいしい、年越し。」という名だった。架空の家族を設定し、祖父母、両親、男女の子供のキャラクターをイラストポップにしてドリンク売り場に配置し、それぞれ年越しを連想させるシーンとともにドリンクをアピールするというものだった。
 昭男はさっそく会議で企画の内容をグループメンバーと共有し、「さいたまフーズ」を訪ねる日を決め、上野と同行、プレゼンテーションを行った。

 結果はすぐに出た。翌日、あゆみが取り次いだ電話で、昭男は勝利を知った。
「今年の年末はTKさんに任せますよ」
 という「さいたまフーズ」担当者の一声が、昭男の勝ちを告げていた。第一グループは大型受注に大歓声をあげた。同僚らは昭男を囲み、握手したり肩を叩いたりして喜びを分かち合った。上野も、全力を出し切った部下に拍手を送っていた。昭男は久しぶりに大きな仕事を成功させた充実感に浸されながら、喫煙室へ行って一服した。
 喫煙室の窓外の景色は周囲のビルに阻まれてほとんど見られないが、ビルの隙間から射す西日が、昭男の吹く煙を白く浮かび上がらせた。
 ……やり切った。面倒くさい木村の得意先の引き継ぎや、仕事へのちょっとした疑問があったものの、大きな仕事を納めることができた。この数週間の心の動揺は、たぶん、一種の発作に過ぎなかったのだ。スポーツマンが味わうスランプのようなものに、ほんのわずか、俺も陥っていただけだ。一と仕事終えた後の煙草は、やっぱり旨い。

「やったな。淀川」
 と、清次が入ってきて言った。清次も煙草に火を点けた。
「さいたまフーズさん、このところドリンクの売り上げが伸び悩んでいたんだ。淀川の企画で、きっと年末は伸びるよ」
「……景気も少しずつ回復しているしな」
 昭男は、いきなり清次に礼を言われたことに内心驚いていた。「俺が大きな仕事を取ったことが悔しくはないのか?」と聞こうとしたが、やめた。清次には、自身が為し得なかった仕事を昭男がいきなり為し得たことに、悔しさなどまったくないだろう。いつものように、涼しい顔をしている。こっちは大変な思いをしてやっと仕事を得たのに、前任者のこの余裕ぶりはいったい何なのか……。率直な気持ちを確かめてみようかと思ったが、それもやめた。どうせ暖簾に腕押しで、「俺は淀川ほど仕事に熱意はないから」などと、平然と言ってのけそうだった。
「お、二人して何してんねん」
 上野まで突然入ってきて、煙草を吸い始めた。
「おう、淀川、決算賞与、間違いないしやで」
「本当ッスか!」
「当たり前や。お前の受注で一気に予算達成になるからな。今日は打ち上げやることになったから、早う仕事終わらせろ」
「はい」
 上野はすぱすぱと吹かすだけ吹かして、すぐ灰皿に押し込むと、さっさと出て行こうとしたが、ふり返った。
「ほんまにようやった。前任者がなんもせぇへん、無責任な奴やったから、一時はどうなることかと思うたやろ」
 目の前に清次がいるにも関わらず上野は遠慮なく言った。清次は顔を強ばらせた。昭男は清次の微妙な動揺を見逃さなかったが、清次のことなど、すでにまったく気にかけていなかった。
「いやぁ大変でしたよ。仕事のできない能無しの尻拭いをしながら営業活動するんですから」
「ははははは。まぁ今日は、辞めてく奴なんか抜きにして、楽しく飲もうや」
 と言うと、上野は出て行った。昭男も煙草を消し、出て行こうとする間際、清次の顔をチラと見た。
 清次の顔にいつもの涼しさはなかった。ただ、鋭い眼で無心に昭男を射ていた。その瞳には、悔しさとも失望とも受け取れない、妙な威力があった。昭男は刹那、歩みを動揺させたが、すぐに重心を取り戻し、喫煙室を後にした。
 「怒らせたかな……」と小さくつぶやいたが、美味しい酒に胸が騒いで、そんな雑念はすぐに消えた。

(つづく)