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知られざる肖像画

 …つまらない記事になるだろう。
 朝の通勤ラッシュに苦しまなくてもすむ新宿からの下り電車の中で、杉村は窓外に目をやりながら胸中で密かにつぶやいた。
 洋画家の平川聡が三日前に死んだ。かねてから患っていた喉のために入院生活を続けていたが、読書中に動脈瘤が破裂、急死した。今日は葬式である。「首都日日新聞」の文化欄担当の杉村は、その取材に行くことになっていた。文化欄担当セクションの係長から、
「しょうがねぇ、杉村行ってきてくれ。原稿は一から作らなくちゃいけねぇから。たしか平川聡って一人娘がいたよな。単独インタビューにしとくか。資料はこっちで集めるからよ」
 阿呆臭い企画だと杉村は思った。首都日日新聞の文化欄担当では著名な文化人の中で、「そろそろ亡くなるであろう」人物についての資料があらかじめ作ってあって、入院の知らせでも入れば早々に記事構成をしてしまう。とうとう亡くなったとなったら記事を仕上げて、スピード第一、すぐに世へ発信するのであった。しかし平川画伯は享年八十五歳でありながら、文化欄では、要するに「死ぬ」準備を怠っていた。皮肉だが仕事の怠慢なのだった。だから、まずは突撃せよと、杉村に今日の葬式の模様取材の白羽の矢が立ったのだった。すぐに取材依頼をしたが、一人娘の平川綾子は「すぐには応じられない」と言った。まずは葬式に参列して面識を得て、仕切り直すことになる。
 杉村は都内の事件事故を追っている同僚が羨ましかった。もともと杉村は夜討ち朝駆けの事件記者に憧れて首都日日新聞に入ったのだった。小学生の夏休みの頃、再放送していた「特捜最前線」を毎回母親と一緒に見ていた。だから文化欄で以前、大滝秀治を取材した時は異常に興奮してしまったのを覚えている。しかし文化欄担当で楽しかった仕事はそれくらいで、あとはやれ誰が死んだ、あいつが賞を取った、これからのアートの傾向は云々……。
 で、今回は平川画伯の死去か…つまんない記事になるんだろうな…
 郊外の高級住宅街からほど近い丘の中に斎場はあった。杉村は葬式の開始予定の十五分前に着いた。さすが世界的な洋画家ということもあって多くの人が参列していた。ベンツやBMWロールスロイスまでもが駐車場に停められていた。
「美術商とか、大企業の社長だろうな。平川画伯って広告の仕事もしてたはずだし」
 受付場所に三十代の細身の美人がいた。挨拶をするとすぐに彼女が平川綾子であることがわかった。杉村は挨拶をして名刺を渡した。すると、なぁんだ、という顔をして頭を下げただけで、返事をしなかった。無愛想な女だな、と杉村は思った。
 葬式は退屈でならなかった。
 平川画伯は小田原に個人美術館を持っていた。クライアントである化粧品会社の出資による美術館だった。葬式の参列者には美術館の学芸員なども混じっているわけである。その他、クライアントや美術商の他に、画壇の関係者、友人知人などで、六十人くらいはいたであろう。
 杉村は退屈でならなかった。斎場の従業員が司会をして、喪主である綾子が話し、読経が行われた。
 その最中、杉村は「悲しい」という情緒を会場のどこを見回しても感じることが出来なかった。この会場に喪服を着て参列している輩といえば、クライアントは仕事上の付き合いの延長線上として、美術館の学芸員も同じ理由で、美術商は平川画伯の絵の価格がどれくらい上がるだろうという皮算用で頭の中がいっぱいだろうし、画壇の友人知人とても平川とどれほど深い付き合いがあったかわからない。なにせ平川画伯と言えば、係長いわく「仙人みたいに孤独が好きなヤツ」ということで、晩年は一度ニューヨークへ取材に行ったのみだった。あとは郊外の里山の麓にある緑地の中の家で妻と二人で住み、ひたすらアトリエにこもって絵を描き続けていたらしい。娘の綾子は近くに住んでいたとはいえ結婚して子どももおり、ほとんど親の家とはコンタクトをとっていなかった。平川の妻である佐代子は夫の急死のためにショックで入院していた。
 平川が画壇に友人が少ないのは、その性格の烈しさのせいだった。自分の世界を追求するあまりに友人と喧嘩し離反したり、クライアントの要求に堪えかねて仕事を切ってしまったことも多々あった。杉村は、今日参列している人々に「悲しさ」を感じ取ることができないのは、この人たちとて平川の烈しい性格に少なからず閉口したことのあるクチなんだな、と想像した。平川は世界的な日本人の洋画家、それでいて戦後の鮮烈なデビュー以来、半世紀以上も日本の画壇をリードしてきた「偉人」なのであるから、付き合う人が抱く平川との利害関係や友情をベースにした上での摩擦、軋轢の煙たさのほどは尋常でないのだろう、と杉村は思った。 葬式の後、杉村は綾子に挨拶をして首都日日新聞に載せる平川の追悼記事の趣旨を述べた。インタビューは一週間後ということに決まった。
 …つまらない記事になるだろう。
 行きつけの居酒屋で同僚と熱燗を傾けながら思った。特ダネや世間の耳目を集めているニュースを日夜追跡している同僚は肉食獣のように活き活きとしていた。オレはせいぜい羊か牛みたいに、牧草をかじってるだけだ、と杉村は思った。
 係長と打ち合わせをした。平川の追悼記事に載せる画業や略歴などの資料が揃ったのだ。
 平川は戦後すぐに、「昭和二十年三月十日」と「昭和二十年八月十五日」という連作の絵を発表して一躍画壇に躍り出た。東京大空襲で逃げ惑う人々を描いた「三月十日」と、玉音放送を聞いて泣き崩れる人々を描いた「八月十五日」が世間の度肝を抜いた。その後も戦争との因縁は絶ちがたく、作品を発表し続け、平川は「反戦画家」とまで呼ばれた。朝鮮戦争ベトナム戦争などの惨状をリアリズムで描き出し、そこに写されるのはいつの世も変わらない「人間の悲惨」。遺作となる最晩年の作品は「ニューヨークの乙女」。「9.11」が起きたすぐ後に渡米し、未だ瓦礫が取り払われない廃墟を前に立った少女の無邪気な笑顔。惨劇の場にどうして笑顔なのか、という議論が画壇や美術雑誌で巻き起こったが、平川は明白な答えを提示していない…。
「要するに、よくわからん画家なんだ。頑固で、絵一筋で。俺も一回会ったことはあるけど、口をへの字にしてよ、全然話さん。へへ、ウチの社長みてぇだよ。仕事のためには世界中どこへでも飛んで行くんで、家族は苦労したろうよ」
「娘の綾子とのエピソードは何があるんですか?」
「知らん」
「それじゃ、何にも喋ってくれなかったらどうするんですか!?」
「そこを聞き出すのが記者の役目だろうが!」
「他の取材対象者を探しましょうよ。もっと知ってる人、いますよ」
「ばか! そんな時間あるか。こういうのはスピードが大事なんだ。妻は入院しちゃってるんだからしょうがねぇだろ、娘しかいねぇんだよ! 例の通り、友人知人だってそんなに仲の深い人がいねぇんだから!」
 …つまらない記事になるだろうな。
 杉村が抱く念は一向に変わらなかった。何が面白くて仕事をしているのか、解らなかった。

  綾子とは平川の自宅で会った。平川の妻が入院している今、誰もいない家となっていた。
 春の光がレースのカーテンを通して射し込み、居間の絨毯はまぶしく照っていた。窓外では、風に揺れる里山の木々が、時に陽光を浴びて笑っているように見えた。
 杉村はテーブルを挟んでソファに腰掛け、綾子と向き合って取材した。
 綾子自身のこと、生前の父のこと、父との一番楽しい思い出、辛い思い出、貰ったプレゼント、印象に残った言葉……杉村に返ってくるのは、別に面白くもない月並みな親子の交流の様子だった。綾子は平川の三人目の妻との間に生まれた娘で、五十以上も年が離れているから大した思い出がないのも当然なのかも知れない。いったい、綾子は父親に愛されていたのだろうか、思えばなんて不幸な娘なんだろう…と、杉村は考えた。ちょうど、尻下がりの目と厚い唇とが父親に瓜二つの綾子の言葉は、杉村には無味乾燥だった。「まぁ、早いところ終わらせて、さっさと記事にしちまおう」というのが正直な胸の内だった。
「じゃあ、最後に写真を……」
「はい……」
 杉村は壁に架けてある「ニューヨークの乙女」を指差して、
「せっかくですから、画伯の遺作の前でお願いします」
「は、はぁ……」
 綾子は自分の背ほどもある大きな絵の前に立った。杉村はカメラを向けた。無表情の綾子がファインダーの中に映っていた。「つまらねぇな」と思いながらシャッターを切った瞬間、動きが止まった。咄嗟に顔を上げて綾子を見た。綾子は目に涙を浮かべていた。頬を伝う涙を手で押さえながら、顔を俯けていた。
「……」
「す、すみません……急になんか、こみあげてきちゃって」
 杉村は唖然としたままだった。「ニューヨークの乙女」を前にして、綾子は静かに言った。
「父は、私を一切可愛がらなくてね。というのも、自分が仕事に没頭するために娘をかまえる時間が取れないものだから。私が結婚する時に描いてくれた、私の肖像画があるんですけど、実は、この『ニューヨークの乙女』に塗り潰されてしまいまして。私が結婚する直前にニューヨークの事件が起きたものですから、肖像画を描きかけのまますぐにアメリカへ飛んで行っちゃったの。結婚式の日に私に手渡す予定だったけど、出来なかったんです。『ニューヨークの乙女』に早く取り掛かるために、手近にあった描きかけの肖像画を潰してしまった、って、母が言ってました。どうしてこの乙女が笑っているか。不思議でしょう? 私にもわかりません。でも、きっと、下にある私の絵が、笑顔だったからかなぁ、って私は思っています。この絵が遺作になることを父は恐らく知っていて、最後に描く人の顔は、微笑ませたかったんじゃないでしょうか。私には、そんな気がしてなりません」
 杉村はポカンとしていた。
「父が私の絵を描く時、モデルの私を前にしてキャンバスに向かっている顔は、とっても優しかったんです。私、父が亡くなってこの絵だけが残された時、これ以上泣けないくらい泣きました。父は仕事人間でしたけど、きっと私のことを愛してくれていたと思ってます」
 杉村は今、この親子の深い心の底を垣間見た気がした。同時に取材は一からやり直さなくてはならないと思った。
 「偉大な洋画家の娘のインタビュー」などというお茶漬けみたいな記事で、この親子のことを伝えられるわけがないと、瞬時に悟った。そんな杉村の惑いを他所に、綾子は涙を押さえながらしかし晴れやかな顔で言った。
「最後に見た父の顔は、神様のようでしたよ」
 帰りの電車の中で、窓外を見ながら杉村は胸中でつぶやいた。
 …つまらない記事になるなぁ。
 杉村の述懐は取材の前と後で変わらなかった。しかしその内実は単なる無気力でなく、悔恨の念だった。写真を撮った、「ニューヨークの乙女」を背にした綾子は無表情だったのだから。自分を取り巻く仕事のスピードと分量の中にあって、偉大な洋画家の遺作の下に知られざる肖像画が潜んでいること、見えない親子の愛が秘められていることは、とてもとても、描き尽くせそうにないから。

  おわり