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似顔絵師(6)

 師走はせわしなく過ぎていった。昭男たちはすでに年始、春へ向けての活動を始め、あゆみたちは事務処理に焦り、工場は生産に追われていた。
 一年が終わろうとする、師走のこの慌ただしいわずかな数日間が、昭男は好きだった。会社を見ても世間を見ても、誰もが自分の仕事をきれいに片づけ、往く年を無事に送ろうとせわしく動き回っている。こういう時、人間は皆、巨大な何かに動かされている、等しく小さな存在だと思えるのだった。愚かでもあり、尊くもあり、何だか愛おしくなってくるのである。そんな感慨を一人楽しんでいるうちに、「TKビバレッジ」は仕事納めの日を迎えた。
 最終日は得意先に、今年の御礼と来年以降の付き合いをよろしくお願いするだけだった。営業マンたちは朝礼を終えると、さっさと外出した。昭男は都心と埼玉南部の挨拶をさっさと終えてしまうと、昼過ぎには本社に帰ってきた。オフィスでは皆がすでに忘年会へ繰り出す楽しみにうきうきしているようだった。
 ふと、隣の清次のデスクが目に入った。誰も使っていないデスクのように何もなく、本人もいない。
 「そういえば今日は木村の最終日だったんだ……」と昭男は思った。しかし得意先は全て金村や昭男に引き渡したのだから、外出する理由もないはずである。
「あゆみ。木村は、今日はどうしているの?」
 と、あゆみのデスクを見ると、色鉛筆で描かれたカラフルな似顔絵が置いてあった。あゆみの平べったい鼻と垂れた目を上手く特徴として描き、かつ可愛らしく表した優しい似顔絵だった。昭男の脳裏にすぐに清次の顔が浮かんだ。
「清次くんなら、昼食で外出した切り、まだ戻っていないわよ」
 聞くと、清次は朝礼が終わった後に少し書類整理などをしていただけで、あとは特に何もせず、昼になるとさっさと外へ出て行ったらしい。
「お前……この似顔絵は、木村からもらったの?」
「そうよ。これまでありがとう、って」
 あゆみは何だかそっけない。「それにしても、上手い似顔絵だ」と昭男は感じた。自分はとんと絵心のない男だが、まるであゆみがそこに笑っているかのように見えるこの似顔絵に胸中で感嘆した。「似顔絵師になる」と言っていた清次の言葉は、嘘ではなかったのだ。
 そんなことをふと感じはしたが、昭男は、辞め行く清次に何の未練もなく、することもなかったので、ふらりと外へ出て、気の赴くまま、近くの公園まで歩いて行った。
 だだっ広い公園には、ベンチで携帯電話をいじっている学生らしき若者や、同じく携帯電話に夢中のサラリーマン、そしてホームレスらしき汚い格好の男が数人、することもなく時間を浪費していた。年の瀬のムードは好きだが、こういうダラケた連中は嫌いだった。
「淀川!」
 呼ぶ声の方を向くと、ベンチに座り、鳩の群れに囲まれる清次が昭男に向かって手を挙げていた。
 正直、今日みたいな気分のすぐれた日に、清次のような男と落ち着いて話す気はなかった。話すと、何だが気分を害しそうだからだ。しかし、自分とはまるで違う考えを持つ清次と話すのも、正真正銘、これが最後の機会だろう。それに、清次はいつになく上機嫌なようである。「夕礼までのわずかな時間、こいつと雑談でもして過ごしてみるか」と思った。
「お前、何しているんだ」
 と、ベンチに歩み寄った。昭男がベンチに近づくにつれ、鳩の群れは散らばっていった。
「今日で最後だけどすることもないから、公園にいただけだ」
「あゆみに似顔絵を贈ったのか」
「ああ。川村にはけっこう世話になったからな」
 昭男には清次に対し、もはや一寸の共感も敬意も抱いていなかった。否、自分が営業として精一杯生きていくため、清次を受け入れるのを胸の奥で拒絶していた。
「木村、お前、日本中を旅するとか言っていたよな。もう、明日から出かけるのか?」
「ああ。アパートを引き払って、家族にも誰にも挨拶せず、ひっそり消えるとするよ」
「消える?」
「ああ。水が蒸発するように、社会から消える。地縁も血縁も諦める。日本のどこかで、ただ似顔絵を描いて生きる」
 荒川の土手で清次の話したことが、脳裏に蘇ってきた。あの時と同じく、清次には嘘を吐く気配も、キザな素振りもない。涼しげでいて、根拠のない強さがあった。
 昭男はにわかに眉を寄せて清次を睨んだ。
「お前は、頭がイカレてるな。旅とか似顔絵とか、夢みたいなことばかり言いやがって。結局は、毎日働いて生きる現実に耐えられないんだろう」
 清次は昭男の罵声を静かに受け止め、黙っていた。公園は静かだった。気力のない学生やサラリーマンやホームレスがたむろし、どんよりした空気に浸されていた。それは若くて清新な昭男の持つ血気や、仕事と生活への確信とは、あらかじめ無縁のものである。清次は静かに口を開いた。
 ――異論を唱えるつもりはないが、俺は似顔師きとして、真面目に働いて生きていくつもりだ。ただ、周りを押し退けないと自分が押し退けられるようなサラリーマンの世界が、どうも性に合わないだけだ。もっとも、これは俺の偏見なのかも知れないが。
 母さんが死んでしばらくの間、俺は日本を放浪した。父さんはすっかり信心深くなったが、俺は精神的にかなり乱れていて、学問もサークルもアルバイトも手につかず、東北地方を巡りながら、安宿で毎晩酒を喰らっていた。家に閉じこもる「ひきこもり」の逆で、外に閉じこもる「外こもり」のようなものだったろうか。
 ある日、通りかかったお寺で縁日が開かれていて、がらくたやお面や骨董を売る連中の中に、似顔絵屋があった。似顔絵師は五十代くらいのひげもじゃの汚い男だったが、さすが絵描きらしく、服装のセンスがよかった。俺の顔を描いてもらった。聞くと、似顔絵師として日本中を放浪して生きているらしい。俺は昔からマンガ好きの延長で絵を描くのが好きで、美大を出たということもあったし、男が同じ東京出身というから、意気投合……いや、俺の方が一方的にまとわりついて、その夜は赤ちょうちんで一緒に一杯やった。
 男は東京出身ということ以外、生い立ちも名前も明かさなかった。「地縁も血縁も、ぜんぶ捨てたからなぁ」と、猪口を傾けてニヤニヤしていたのを覚えている。締りのない「なぁ」が、今でも印象的だよ。
 縁日や地域のイベントを転々としながら、来る日も来る日も似顔絵を描く。あらかじめ描きためた有名人の似顔絵も売り、客の依頼も受けて描いて、生活はギリギリだと言っていた。自由だが、孤独で、救いはない。的屋の世界にはきびしい掟もあるらしい。だが、俺は絵を描くのが好きだし、自分の才能で勝負する方が、たとえ負けても――野垂れ死にしても、悔いがなくていい。翌朝男と別れてから一人で海辺を歩いて、俺はそんなことを思った。芸大の美術科を出ておきながらすっかり絵から離れていたが、絵への情熱が、胸の中で静かに再燃していた。
 男は文字通り、日本中を巡っているようで、「東京なら、上野へ足を運ぶことがあるなぁ。その時は、公衆電話から連絡入れるから、来てくれよ」と言い残した。信用しなかったが、俺は携帯電話の番号を渡しておいた。本当に電話がかかってきたのは、半年後だ。風が冷たくなり、木々の葉も落ち始めた冬の初めごろだった。俺はすっかりうれしくなって、上野公園に会いに行った。似顔絵師になりたいと莫然と思いながらもちゃっかり就職活動をして、「TKビバレッジ」の内定をもらった、ほんの数日後だったと思う。
 男は西郷さんの近くで似顔絵屋をやっていたが…ひどく身体を弱らせていた。寒さを逃れて南下する途上だったらしいが、「読みが外れて、寒波にやられた」とのことだった。額を触ると、ひどく熱かった。俺はとにかく家へ連れて行って看病しようと思ったが、男は強く拒否した。「人の世話になんかなりたくねぇ」と、締りのない低い声で唸っていた。男は金もないので、段ボールにくるまって寝るという。俺はひとまずその日は帰ったが、不安と後悔で一睡もできなかった。本当に馬鹿だった。そういう時は警察に保護を求めるべきだろうが、それをやったら、あの男はどう思うだろうかという迷いが生じて、何もできずに一夜を過ごした。翌日の明け方、すぐに上野公園へ行ってみると、男は相変わらず悶えていた。俺は男を抱き起した。そして、瞼や唇を震わせ言葉すら発しない男を見て、「ああ……きっと、もう死ぬんだろう」と悟った。男はついに一言も発しなかった。色鉛筆と水彩絵の具で汚れた男の冷たい手を握り、俺は、静かに最期を看取った。
 亡骸は警察が引き取ったが、ついに男の氏素性はわからずじまいだった。行旅死亡人として、役所によって火葬された。
 男は俺に何も残さなかった。でも、「地縁も血縁も、ぜんぶ捨てたからなぁ」という、あの締りのない馬鹿のような笑い顔だけは今でも鮮明に覚えている。人の縁なんて、曖昧なもんだ。男はあらゆる縁を断ち切ったが、ひょっとしたら、それで幸せだったのかも知れない。
 どんな人も、この世に裸で生まれてきて、裸で死んでいく。最後は粉々になって、消えて行く。そんな風に思ってからというもの、俺は会社で生きていくのがすっかり馬鹿らしくなった。籍は置いても、心はどこか旅の空という感じだった。飲料の営業なんて、まるで身が入らなかった。よく二年以上も続いたものだと思うよ。
 けっきょく、得意先の受付が俺に引導を渡したことになるか。俺は一度、本気であの女との将来を考えたが、哀れな結末になった。笑われても一向に構わない。
 そんなわけで、俺はもうまともな生き方を降りようと思う。淀川には恨みも悔いもない。ただ、俺がひっそりみんなの前から姿を消そうとしているところを、むやみに罵倒されたのが不服だったから、ちょっと言い訳をしてみたまでだ。気にしないでくれ。

 金村と昭男の健闘により、得意先は年末商戦を好成績で乗り切り、「TKビバレッジ」本社も予算を達成した。上野をはじめとした全社の中間管理職と経営陣が話し合い、今年の営業MVPは昭男に決まった。夕礼時に発表された。昭男にとっては、決算賞与とボーナスとMVPの報奨金とが一挙に渡される幸福な日となった。
 社員たちは昭男に拍手を送り、上野は昭男の肩を叩くと、握手を求めた。
「ようやった。でも、まだまだ伸び盛りや。来年も頑張って、この会社を盛り立ててくれよ」
 終業すると、本社社員一同、陽気に忘年会へ繰り出すことになった。楽しそうに騒ぎながら事務所を後にする同僚や先輩たちの背中を見つめながら、昭男は清次のデスクを見た。
 清次の姿は、すでにどこにもなかった。けっきょく、今日が最後の日だった清次のことを気にかける者は誰一人いなかった。

 ―終―