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名前のない手記(26)

 禍々しい事件現場を見た時、私の心は大きく、深く陥没していった。取り返しのつかぬ事態に身を震わし、目を瞠った。名状しがたい、黒い波のようなものに意識がさらわれ、その場に立ち尽くした。
 それでも思考は正常に働いたのだろう。私は慄然としながら、その場で何が起きたのかを瞬時に悟った。酒に顔を赤らめた藤田君が血のついた包丁を握り、笹本が倒れ伏している。事態を把握する材料はそれだけで充分だった。
 後で仲間の語ったところによれば、藤田君は酔っ払った挙句に、こっそり貯蓄していることを皆に打ち明けたとのことだった。
「立ち直ってみたいんですよ」
 と口にしたのが印象的だったと仲間は言った。そして案の定、笹本による嘲罵の対象となったらしい。
「お前みたいなノータリンが何をやったってダメなのに決まってるだろ!」
 キレた藤田君は、笹本を殺した。凶器となった包丁は、笹本自身が持ってきたものらしい。その夜は仲間が八百屋で桃を買ってきていた。
 藤田君はほどなくして警察に連行された。その間際、私はようやく体を動かすことに成功し、藤田君に歩み寄った。
「お、おい。藤田君!」
「……鈴木さん」
 私の名をささやくように言うと、彼は目に涙を浮かべた。歯を食いしばり、悔しさと怒りに満ちた顔をした。
「藤田君、藤田君!」
 私はそれしか言えなかった。他にどんな言葉も見つからなかった。藤田君は充血した目で私を見たまま、警察に両脇を抱えられ、連れて行かれた。
 パトカーは走り去り、事件現場は立ち入り禁止となった。私はとぼとぼと金本旅館へ帰った、ような気がする。

 翌日の新聞に藤田君のことが載った。二十行ほどのスペースに事件のあらましだけが書かれていた。しかしそれ以上事件が深堀りされて報じられることはなかった。
 私は、仕事をしても、酒を飲んでも、女を抱いても、一向に胸の内の穴がふさがらない苦痛を抱え続けた。どうにもこうにも苦しいので、筆を執ることを決めたのだ。藤田君と笹本にまつわる材料を短期間でできる限り集めたが、彼らの家族や生い立ちのことはついに解らなかった。しかし、それは問題ではなかろう。藤田君の過ちの発端は、私の激励にあったのだろうか。この殺人は、藤田君を不用意に勇気づけた私の罪悪なのか。憐憫という感情は抱いてはならぬものなのか。少なくとも今の私には答えは出せない。ただ、世の人々には確実に忘れ去られるであろう、山谷における夏の一夜の空しい惨劇を、名前のない手記として書き留めておきたい。

 ―終―

名前のない手記(25)

   〇

 私は今、金本旅館の一室で筆を執っている。九月になったが、暑さは一向に衰えを見せない。周りは静かである。筆を執っている間に、労働者たちは日雇いの仕事を終えて帰ってきて、酒と肴を食らって寝た。彼らとは変わらず意味のない言葉を交わすが、もはや藤田君と笹本のことを口にする者はない。二人は、きれいさっぱり山谷から姿を消した。
 先ほど、酒井法子が保釈されたというニュースを聞いた。これからアイドルはファンに向けて立ち直りの物語を演じていくことになる。しかし藤田君が立ち直った姿を私に見せてくれることは、もはや永遠にないであろう。

 今から半月ほど前の八月三十日、衆議院議員の総選挙が行われた。自民党が歴史的な敗北を喫し、民主党が政権を得た。世間は政権交代の実現に沸きかえっていたようだが、私は特に生活が変わるとも思われないのでさほど興味がなかった。あるとすれば、藤田君の将来の暮らしにどれだけの寄与があるかということだった。
 藤田君は少し前から貯蓄を開始していた。「口座を作ることはできないから、自分にしか解らない場所にこっそり隠してあるんです」と私に打ち明けた。笹本とは付かず離れずの関係を続けていたようだった。
 笹本の方は自堕落な生活を一向に変えることなく過ごしているようだった。日雇いで稼いだ金はギャンブルと酒に費やし、雨が降って仕事がなければドヤの仲間たちとアーケードの下で将棋をしたり飲んだくれたりしていた。私は何回か、笹本が例の悪罵を仲間に浴びせているのを見かけたことがある。藤田君とも時には会ったり飲んだりしていたようだ。そして、自民党が負けたその夜も、二人は数人の仲間たちと酒を飲み交わしていた。
 私が自室で不穏な騒ぎ声を聞き、アーケード下へ駆けつけた時、笹本はすでに動かなくなっていた。傍らには、仲間に押さえられた藤田君がいた。手には血のついた包丁を持ち、服にはたくさんの返り血が付いていた。顔はひどく紅潮していた。

名前のない手記(24)

   〇

 傍から見る分には解らなかったが、それ以来藤田君は明らかに変化した。毎日必ず日雇いの仕事へ出るだけでなく、パチンコへ行く頻度が落ち、酒量も減った。私の言葉が何かの決め手になったとは思えない。ただ、ぼんやりと未来につなぐ何かが心の中で萌したのではないかと思った。時には飲みすぎてへべれけになることもあったし、酔っ払いと喧嘩しかけることもあったが、花火大会の時のように箍が外れることはなかった。

 しかし、事態は急転した。私たちの前に再び笹本が現れたのである。後でわかったことだが、笹本は花火大会の大喧嘩の時、藤田君と同じく警官の手を逃れて事なきを得た。隅田川を離れて再び東京を転々とした後、山谷へやってきたということだった。
 蒸し暑い夜、私と藤田君と数人の労働者仲間がいつものように道路に寝ころがってくだらない話にふけっていると、
「おお。藤田じゃないか!」
 と、あのニヤニヤした莫迦づらが通りかかった。藤田君は驚きながらもうれしそうな顔で、
「笹本さん。あれからどこへ行ってたんですか?」
 と言った。笹本は腰を落として、藤田君をジロッと見て、
「まったく。お前がとんずらしたからこっちは大変だったんだぞ。ケータイもつながらなかったし」
「す、すみません。どこかに失くしちゃって……」
 私と労働者仲間がポカンを見ていたので、笹本は私たちに軽く会釈した。笹本が場の空気をさらってしまい、すっかり白けた私たちは宴会を閉じた。藤田君と笹本が雑談を続けるのを尻目に、私は金本旅館へ引き揚げた。ゲラゲラ笑う笹本の声が聞こえて、何だか厭な予感がした。
 それからというもの、笹本は金本旅館にほど近い「菊屋」というドヤに泊まり、山谷での生活を開始することになった。
 そして、私の厭な予感は的中してしまうことになる。

名前のない手記(23)

「ん? どうしてですか?」
 藤田君は目を丸めた。私は声を落として言った。
「こんな都会の掃き溜めのようなところで大切な時間を浪費するものじゃないよ。オレは正真正銘の落伍者だが、君にはまだまだ可能性がある。こんなところで過ごして将来を棒に振っては、あまりにもったいない」
 藤田君は私を見たまま黙り込んだ。眉間に寄った皺が、自分には処理できない提案をされたことを示していた。しかし私とて藤田君に無茶を言っていることは解っていた。
 大学で映像研究を学んだということは、多少はそういう道を志していたことだろう。それがどういうわけか派遣社員として望まぬ職場へ放り込まれ、懸命に働いた挙句、無残な首切りを食らって路上へ転がり出た。笹本の口車に乗せられて東京を流れた果ては隅田川へ漂着し、「Who’s Bad!」などと踊り狂う堕落ぶり。酒に酔って喧嘩をしかけ、あわや逮捕という救いようの無さ。かように転落に転落を繰り返したわけではあったものの、藤田君には一寸の素直さと無邪気さがあるようにも思われた。現在の境遇は決して藤田君自身の資質だけに起因するのではなく、世界不況やら派遣切りやらで暗くなった世相や、もろもろの不条理の犠牲になっているに過ぎない部分もあるのである。藤田君もよくぞあの場で「Who’s Bad!」と言ったものである。「悪いのは誰か?」。藤田君自身では決してない。
 藤田君は立ち直ることができる。志を立てて辛抱強く努力を続ければ、必ずや何らかの実りを得ることができるはずである。そしてその実りは山谷には存在しないものであろう。
「でも、山谷を出たって、何をどうすればいいか……」
 試験の難問に頭を抱える受験生のようだった。
 職を得るためにまずは住所を得ること、生活を立てるためには多少の貯蓄をすることを私は教えた。山谷ではよく、頭の悪そうな者同士が向かい合い、一方が相手に対し何やら小難しい言葉を並べ立てて延々と説教している図が見られる。人生がどうの、日本がどうのと飽きもせず語っているのだが、あれは要するに威張りたいのと聴きたいのとが互いの欲求を満たしているだけである。しかし、私は藤田君の未来を見据えて話した。この山谷から藤田君を送り出してやりたい気持ちだった。藤田君は困った顔をしながらも私の顔を真剣に見つつ、時おり頷いていた。

名前のない手記(22)

   〇

 それから数日後、タレントの酒井法子が逮捕された。覚せい剤取締法違反容疑とのことだ。藤田君と同じように「魔が差した」のである。しかし人間である以上、魔が差さぬことなどあろうはずはない。大切なのはどのように魔を飼い馴らして生きていくかということだ。方便は酒でも女でもギャンブルでもよかろう。なのに、藤田君も酒井法子も、度を過ぎたのである。魔に負けたのである。
 しかし、自分を打ち負かした魔への復讐は可能である。逮捕のニュースが世間をにぎわしていたころ、藤田君は日雇い労働に汗を流していた。目標を得たわけではなかったが、酒を飲み交わし、話していると、目に生気が甦ってきた気配があった。
酒井法子が逮捕されたね」
「驚きましたよ。僕が小学か中学のときのアイドルでしたから。それにしても、きっと芸能界の底流には麻薬組織の暗躍があるんでしょうね」
「かも知れないな」
「おそろピー!」
「なに、それ?」
のりピー語。『おそろしい』は『おそろピー』になるんですよ。昔けっこう流行りましたよ」
 「のりピー語」なるものに私はさっぱり興味がなかったが、それを口にした藤田君の顔には好感を持った。伸び放題の髪を後ろで束ねたまっさらな顔面は、いつぞやより格段にいい色艶をしていた。残暑の炎天下で働き、汗と共に魔も流れ落ちたのだろう。この時ばかりは私も、藤田君に抱いた憐憫もいくらか実ったものだとうれしかった。やけにカップ酒がうまかった。
「藤田君」
「はい?」
「山谷を出たらどうよ?」

名前のない手記(21)

 笹本は名を司といい、歳は四十代の半ばということだった。藤田君が勤めていた家電量販店で店長をしていた。笹本が藤田君に語ったところによれば、藤田君が派遣切りに遭ったすぐ後に店は経営上の理由により閉店。笹本も職を失った。クビである。その後、都内のネットカフェを転々としながら日雇い派遣で働いていたらしい。年末に仕事はなく、「年越し派遣村」に飢えをしのぎにきたところ、藤田君と再会した。過去のことで話が弾み、それ以降、生活を共にするようになった。その後二人して一度山谷に戻ったが、ある夜中、金本旅館の前で飲みながら辞めさせられた会社の悪口に盛り上がっていたところ、ホームレスと口論になって道端で喧嘩。これを機に山谷を後にした。あてどなく都内を彷徨した末に流れ着いたのが隅田川だった。……ここから先は、私も知っていることだった。

 藤田君の話を総合すると、笹本には人を嘲罵する酒癖がもともと備わっていたようだ。しかし、そんなことより私が気になったのは、藤田君の奇妙な真面目さと幼さである。「キレる若者」は普段はとても大人しいのだろう。否、藤田君は根からとても真面目なのである。思うに、笹本とつるむような人間ではない。ただし、その真面目さには毛筋ほどの――もうちょっと太いかも知れないが――隙間が空いている。きっと、藤田君は魔が差しやすいタイプの人間である。そして、その心の隙間に差し込んできた「魔」こそ笹本だったのである。藤田君が心ひそかに抱いていた、以前の勤め先への一抹の不満や恨みを、笹本は大声で代弁してみせたはずだ。笹本は藤田君には少しばかり「格好良く」映ったことだろう。それだけではない。笹本は恐らく、自分に付いてくることで何らかの利得があることを藤田君にほのめかし、東京中を連れ回したのであろう。事実はどうであろうと、多かれ少なかれ二人の関係はそのようなものであったに違いない。私は溜め息を吐いた。笹本が愚劣なら藤田君も低能そのものだ。なんら冒険的な要素もなく、かと言って色気も食い気も金もない、これほど無価値で無意義な漂流生活が他にあろうか。
 私はここでまた、藤田君に対して一抹の憐憫を抱いた。地に足がついていないばかりか、ひたすら堕ちていこうとしている彼を何とかして引っ張り上げる方法はないものか…。

名前のない手記(20)

 翌日、私が日雇いの仕事を終えて帰ってくると、なんと藤田君はまだ寝ていた。おばさんが言うには、日中に数度、起き出してきてはトイレで激しい嘔吐を繰り返していたとのことだ。昨夜は相当な量を飲んだようだ。
 私はいつものようにドヤ街の通りで住人たちとカップ酒をあおり、軽口を交わした。通りを照らす常夜灯の下で、煙草の煙と住人の下らない話に巻かれながら、莫迦のように笑った。
 金本旅館の方から、藤田君がフラつきながら歩いてきた。「やっと起きてきやがったか」と、私は煙草の煙と共に溜め息を吐いた。藤田君は私の呆れた顔を見ると、おおよその事情を悟ったとみえて、すぐに頭でお辞儀した。
「助けてくれたんですか?」
「オレがいなかったら、今ごろ留置所で両親と面会しているかもよ」
「すみません」
 藤田君は謝ると大きな溜め息をついた。息がやたら臭かった。私が顔をしかめると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「気分はどうよ?」
「すっかり、ゴミにでもなった気分ですね」
 そう自嘲する藤田君の目はわずかな悲しみの色を帯びていた。山谷の住人にはない愁いを持った顔だった。その時私は「かなり底辺まで堕ちたが、やはりこの男は完全にはホームレスになり切っていないようだ」と思った。
 ドヤ代は私が立て替えていたが、藤田君もいくばくかの金を携えていた。手持ちの金でドヤ代を払うと、「明日からは日雇いの仕事をしようと思う」と言った。私は、
「一緒にいたあの眼鏡の男は誰なの?」
 と笹本のことを聞いてみた。
「本当は、あの人と一緒にいる必要なんてなかったんですけれどね……」
 と、アスファルトに腰を下ろして煙草に火を点けた。ゆっくり、細くて長い煙を吹くと笹本のことを話し始めた。