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名前のない手記(3)

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 初めて藤田君と会ったのは昨年の十月の中ごろであったろう。金本旅館で相部屋となった当初は珍しく若い男が泊まりに来ているな、と思った程度で気にも留めなかった。最初に藤田君に注意を向けたのは、十月の終わりごろのある夜である。
 金本旅館では一室に八人の客が泊まる。六畳ほどの部屋に、四つの二段ベッドが備えられている。私は入り口とは反対の窓に面した上のベッドで寝ていた。私はおおよそ毎夜、携帯ラジオを聞きながら眠くなるまで本を読む。ある時、私は用を足すためにイヤホンを外し、ベッドの梯子を降りた。すると、藤田君の寝ているベッドからかすかな鼻歌が聞こえた。カーテンで寝姿はさえぎられていたが、声だけが漏れていた。私はその鼻歌を聞き、とっさにあることに気づいた。「この若い男、映画に詳しいんだな」と。藤田君が鼻歌で奏でていたのは、『第三の男』というイギリスの古い映画のメインテーマだった。私の好きな映画だ。聞き耳を立てながら彼のベッドの前を通り過ぎていくと、メインテーマをずっと歌っていた。それは藤田君も『第三の男』を知り、しかもメインテーマを初めから終わりまで知っていることを物語っていた。藤田君が『第三の男』を歌った理由は単純である。ラジオで流れていたヱビスビールのCMのテーマが『第三の男』のメインテーマを編曲したものだからだ。私もベッドを出るまで、そのCMを聞いていた。
 数日後、彼とは城北労働・福祉センターという生活相談や仕事の斡旋をする施設で出会い、言葉を交わした。ここでは定期的にボランティアによる炊き出しがあり、無償で軽食にありつくことができる。藤田君はセンター前の道路の端に座り込み、雑炊を息を吹きかけながら掻き込んでいた。一人でぽつんとしていたのを見て、私は隣に座り、声をかけたのである。すると、藤田君も私のことを相部屋で一緒の男であると解っていた。
ヱビスのCM曲を聴いて『第三の男』の鼻歌が出てくるなんて、君、いくつなんだ?」
「三十三です。珍しいですかね」
「その歳で『第三の男』は出ない。君の友人たちの間でも君の存在は珍しいだろう」
「大学では映画の歴史をやったので、みんな知ってはいましたがね」
 納得がいった。聞くと、藤田君は大学では映像研究を専攻していたとのことだった。