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アルミニウム(5)

 SとRに念願の子が授かったのは二月の寒い日のことだった。それまで長年二人きりで暮らしてきただけに、こうのとりの来訪は二人を狂喜させた。しかし子は翌月に流れてしまった。美容師の仕事が肉体的にも精神的にもRにとって想像以上の負荷になっていたというのが医師の分析だった。Rは悲しみに暮れた。Sもひどく落胆した。二人とも日々の激しい仕事のために心身に疲れを溜めていたばかりか、そろって休める日は一日もなく、共働きとはいえ贅沢ができるわけでもなかったから、生活はひたすら単調に続き、退屈さが募れば会話にも弾みがなくなって、二人の間には次第に影が差してきていた。清貧の思想など行う余裕は持ち合わせず、むしろ二人とも貧すれば鈍するを地で行っていたので、二人にとって子が宿ったのはまぎれもなく新しい生活を告げる黎明だったのに、それがあえなく流れ去ってしまったのだから、二人の間に差していた影は薄れるどころか、いっそう深く濃くなっていった。小さなことから口論になることもしばしばだった。
 そこへ三月十一日の地震が追い打ちをかけた。
 副業を始めたSは、どうして俺がこんな苦痛を背負わなくてはならないのか、いったい俺が何をしたのか……というやり場のない叫びを胸の内で繰り返した。怨もうにも怨む相手はどこにも無く、ただ目の前の義務に突き動かされて、夜の道を走るしかなかった。Rとは共にいる時間がまったくといっていいほど無くなり、交わす言葉も少なくなったのは言うまでもない。一時期は携帯電話でメールを送り合っていたが、それもお互い仕事が終わったことを報告する程度の味気ないもので、特に運転代行の仕事を終えた後は、メールを送ってもRはとうに寝ていて何の返信もなく、Sにはことさら空しく感じられた。
 Rの頬を平手で打ってしまったのは、そんな日々を送る中のある晩だった。その日、Rは休暇で自宅にいて、Sはいつものように工場から帰ると夕食を急いで食べ、ふたたび運転代行に出かけるところだった。はじまりはテレビ番組を巡ってのくだらない口論だったが、それが夫婦のどちらに生活の主導権があるかという議論に発展し、稼ぎの大小の話にまでなった。そんなたぐいの言い争いにまったく価値がないことは、少し冷静であればお互いに分かることだったが、一度口を吐いて出た相手への鬱憤は容易に止められなくなっていた。Rの発した言葉に身体がとっさに反応してしまったことを、Sは覚えている。しかし、果たしてそれがどんな言葉だったのかは一向に思い出せない。ただ、Rを打った瞬間に、深い後悔と自責の念に胸をえぐられたものの、目の前で頬を押さえ、俯いて泣くRにどんな言葉もかけられなかった。喉がカラカラに乾いていた。急いで着替えるとすぐに家を出た。残っているのはそんな断片的な記憶だけだった。
 その日からRとの交わりは絶えた。言葉も交わさず、メールも一切送り合わなくなった。同じ部屋にいても、二人はまるで赤の他人のように過ごした。Rとの間に生じたこの決定的な亀裂のために、Sの精神はますます荒んでいった。Rに許しを請うための言葉も見つからず、もしその言葉が見つかったにしても口に出す勇気はなく、勇気があったとしてもちっぽけな自尊心が邪魔をしたはずだった。しかし罪を犯したという自覚は日増しに大きくなっていって、ますますSを責め苛んだ。そして仕事は相変わらず忙しく、おまけにアルミ溶湯を浴びて気味の悪い火傷までこしらえてしまった。しかし皮肉なことに、その気味の悪さは、まさしくSの精神状態を表していた。もしいまここに、Sの心の根っこにわだかまっている言霊を定着させるならば、もう死にたい、という一語に尽きるであろう。この苦しい日々から我が身を消し去り、その代わりに、生まれずしてあの世へ行ってしまった小さな命を取り戻すことができれば、それはどれほどの僥倖であろうかとSは思っていた。この数週間というもの、精神が平安になることなどなく、何をどうすれば事態が好転するのかも皆目分からなかった。まるで出口のない密林にでも迷い込んだような絶望と失意のさなかに、Sはいた。
 Kの脚本の主人公の死が、Sのそんな心情を図らずも呼び起こすことになったのである。
 ――俺もそんな風に、かっこよく死んでしまいたいねぇ。
 ――え?何言ってるの、武田さん?
 ――ついこのあいだ、かみさんを殴っちゃったんだ……
 Kは手を止めてSを見た。ろくに整えていない乱れた髪が額から目へかけてばらりと垂れていて、輝きのない、細い一重の眼が虚ろに宙を眺めていた。
 ――おぉい、依頼が入ったぞ。いつものAさんだ。ゴールデン街へ行ってくれ!
 Wの太い声が会話をさえぎった。二人は話を止め、立ち上がるとすぐに事務所を後にした。エレベーターに乗り込むと、
 ――なぁ武田さん。さっき、いきなり何を言い出したんだ?まるで意味が分からなかったけど。
 とKが問うた。しかし当のSも、なぜあんなことを口にしたのか分からなかった。

(つづく)