MENU

似顔絵師(3)

 やさしい秋の風に細い髪をなびかせ、清次は昭男にボールを投げる。
「少し前の暑さが、嘘みたいだよな」
 と、唐突に言う。もはや十一月である。この夏はとんでもない暑さが続いたが、過ぎてみればあっという間のことだったようにも感じる。
 今日の引き継ぎは住宅街の中の小さなスーパーだったが、そこでは清次は惜しまれもせず、あっという間に済んだ。会社に戻っても早すぎるが、昼飯にも早い時間なので、「荒川の土手でちょっとぶらついてみるのはどうだ?」と昭男が誘ったのである。胸の内には、清次という人間をもう少し理解してみたい気持ちもあった。清次は意外にもうれしがって、
「そんなら、土手でキャッチボールでもしようぜ」
 と言い出した。聞くと清次は営業の合間に公園などで壁あてをして時間つぶしをすることがあるということだった。グローブはトランクに二つあるといった。
「実は、お客さんと遊んだりもするんだ」
 と珍しくニカッと笑った。昭男は楽しそうな清次をいぶかりながらも、一緒に土手へ降りて、キャッチボールを始めたのだった。
「引き継ぎも残りわずかだな」
「ああ。金村さんへの引き継ぎもそろそろ終わるから、あと少しだね」
 「金村」とは、一年先輩の第一グループの営業マンである。清次は金村と昭男の二人に自分の得意先をほぼ二分して引き継ぎをしていた。
「年末からは…長い休暇になるのか?」
 何気なく昭男は切り出す。
「ああ。長い長い、終わりのない休暇になるよ」
「終わりのない休暇? なにを気取っていやがる」
 昭男がそう言うと清次は涼やかに笑った。昭男は、これまで清次が何かに必死になったり、焦ったりしているのを見たことがなかった。この三年間の記憶を思い起こすに、清次は一貫して余裕で、爽やかそのものだったように感じる。不倫の発覚の時も、口を閉めて神妙にしていたが、決して困惑や憤りを露わにすることはなかった。しかし、もしかすると清次は胸に湧き起こるあらゆる感情を、顔に出す手前で鎮めているのかも知れない。柔らかい表情の奥には激情がほとばしっているのかも知れない。昭男はここ数日でそんな風にも感じている。
 清次はどちらかというと痩身である。決して血色のいい方ではない丸い貌は、ともすれば病弱に見えなくもない。それでいて目つきはやたら鋭く、見ようによっては執念深そうにも見える。だからひょろひょろとしてはいるが侮れなさそうな雰囲気も持っている。そして普段から表情が優しく涼しげで、何事にも動じないようなところもあるから、こちらは強く出ればいいか下手に出ればいいのかわからないのである。
 アカデミーにでも身を置いていれば、鋭い感性を武器に独自の理論を展開する特異な学者、として通用しそうでもある。しかし営業マン――特に「お水」の営業マン――には体育会系の礼儀正しさや愚直さ、目標を最後まで諦めないど根性や貪欲さが求められるし、そうすることで好かれもする。清次は真面目な方だが、外見には体育会系のそれのような気色はなく、だから外見をもって営業の現場で得することは滅多になかっただろう。ただ、社内でも女からの受けは悪くない。芯の弱い女なら、この目に射すくめられれば容易になびいていきそうでもある。もっとも、これはあゆみの話を肯定的に捉えた場合の昭男の想像であった。
 荒川土手にサラリーマンの姿は他にない。あるのは、サイクリングや散歩など、老後を優雅に楽しむ年寄りの姿ばかりである。このような光景からも、郊外という土地がいかに都心の喧しさから縁遠いかがうかがえる。それは、昭男にとっては「いかにつまらない土地であるか」ということと同義であった。
「お前、会社辞めたら何するの?」
「どうして?」
「ちょっと気になるだけだ」
 清次は鼻で笑う。昭男はにわかにムッとした。
「人のことなんか気にしていたら、営業成績に響くんじゃないか?」
 昭男は虚を突かれた気がした。確かにそうだ。普段の自分なら、寸暇を惜しんで営業活動に打ち込み、昼間から同僚と呑気にキャッチボールなどしたりしない。だが、年末商戦に差し掛かる時季でありながらも、なぜだか、清次の振る舞いや思想が気になって仕方ないのである。
 昭男の放る球は、微妙に力が衰えていた。清次はあたかもその微細な差異を感じ取ったかのように、
「わかった。淀川になら、話すよ。俺は……似顔絵師になって、日本中を放浪しようと思っているんだ」
「放浪?」
 「ああ」と清次は頷く。その顔にはキザな気配も、かといって自分の意図を包み隠す遠慮も見当たらない。この男は終始、涼しげなのである。
「自分探しの旅みたいなものか?」
 昭男は「暇人だなぁ」と付け加えたい気分であった。
「そんなことには興味ない。ほら、『寅さん』っていう映画があるだろう。でも、俺は、故郷に帰るつもりはない。柴又に帰らない寅さんみたいになると言えば、正解かな」
「どういうことだ?」
「よくお祭りなんかに行くと、的屋がいっぱい並んでいるだろう。ああいうのに連なって、似顔絵を描こうと思っているんだ」
 昭男はポカンとしていた。

(つづく)