アルミニウム(4)

 Kは隣でスポーツ新聞をめくるSの腕を見て、ぼそりとつぶやいた。
 ――武田さんの腕。ヒバクしたみたいだね。
 Kはところどころ破れて中のスポンジが見えている黒いフェイクレザーのソファに偉そうに寝転がって、スマートフォンをいじくっていた。
 ――縁起でもないことを言わないでくれよ。
 Sは記事を読みながら苦笑した。腕の火傷痕をヒバクと表現されたのはさすがに初めてだったが、なんだか言い得て妙のようにも思えて口元がほころんだ。Kが言い表そうとしたのは恐らく被爆だろうけれど、このごろ世間を飛び交っている被曝をも意識していたのは間違いなかった。KのそんなセンスにSは感心した。
 待機室は雑居ビル五階の事務所の片隅の、書類棚や山と積まれた段ボールに囲まれた窓際の狭苦しい場所だった。社長のWがキーボードを打つ音や冷蔵庫のうなり声が、部屋を仕切るパーテーションの向こうで鳴っていた。天井では蛍光灯がうるさい音を立て、雨の勢いよく当たる窓からは感度の悪いラジオのような雑音が聞こえた。十坪ほどの事務所にはSとKと、さっきからパソコンに向かっているWの他には誰もおらず、またSの察するところ、KもWも身の周りにはほとんど頓着することなく仮想空間に遊んでいるようだった。横からかすかに覗いたKのスマートフォンの画面にはツイッターのページが見え、Wはさっきからずっと、キーを叩いては椅子にふんぞり返ってディスプレイを眺め、時おりけたたましい笑い声をあげた。おおかたお笑い番組の動画のアーカイブでもチェックしているのだろうと、Sは推した。
 ――でもさぁ、ストロンチウムとかセシウムとかが東京にも飛んで来ているんだから、縁遠い話じゃないよ。ほんと、怖いよねぇ。
 とても本心から怖がっているとは思えない口調だった。
 ――この火傷はアルミニウムだから安心だよ。
 ――はははははははは。上手いこと言うねぇ、武田さん!
 Kは馬が大口を開けて笑っているような、阿呆みたいな笑顔を見せた。Sは思わず苦笑した。
 ――そうか、アルミで火傷をしたのか。武田さん、もしかして鋳物でも作っているの?
 Kが即座に鋳物という言葉を発したことにSは驚いた。スポーツ新聞を持つ手を下ろし、Kに向いて工場の仕事について一通り説明すると、Kはツイートしながらもふんふんと頷いて、妙に納得しているようだった。
 ――なんだか、よく知っている風じゃないか。
 ――以前、東京の下町の町工場のことを調べたことがあるんだよ。
 Kは大学では映画を学んでいたらしく、脚本の題材を求めて町工場の労働者のことを調べていた時期があったとのことだった。その脚本は一応は第一稿として成り立ったが、ゼミ生と講師には不評で、映像化されることなく今もKの部屋の押し入れの段ボールの中に眠っているという。SはKの話に聞き入っていたが、Kの方は話しながらネット上のつぶやきも休まず繰り返しているようだった。
 ――その脚本って、どんな話なの?
 Kは一度、タッチパネルの上を滑る手を止め、微かに笑った。
 ――しょうもない話だよ……
 とつぶやくと、ふたたびタッチパネルをいじくり始め、同時に過去の自作のあらましを語り出した。
 脚本の主人公は、下町の小さな自動車整備工場で働く若い整備工で、貧乏ながらも妻と手を取り合って健気に生きていた。待ち望んだ子がようやく妻の腹に宿るが、ある日、整備中の車を支える器具が外れて、下敷きになって命を落とす。残された妻は泣き崩れ、一度は後を追おうと思うが、子を夫の代わりと思い、一緒に強く生きていこうと決意する。そんな話だ。
 ――ははははは。つまらないだろう?
 ――まぁ、ありきたりではあるけれどね。
 とSは短く返したが、フリーター暮らしに埋ずもれた、いつまでもモラトリアムの中にいる腑抜けた若者という印象しかなかったKが、過去にこんなおセンチなシナリオを書いていたとは意外だった。しかしそれよりも、作業中の事故だとか、強く生きていこうだとかいう話は、Sには他人事とは思えなかった。特に、子が授かるという生の観念と、命を落とすという死の観念は、このごろSの心の奥深くにわだかまっている耐えがたい二律背反だったのである。

(つづく)