アルミニウム(2)

 六月の厭な雨夜だった。
 その夜八時過ぎ、依頼を受けたSがゴールデン街の店を訪ねると、Aは目をとろんとさせて、よぉ、来たか、と笑った。ママはカウンター越しにSに苦笑しながら、ごめんねぇ、よろしくねと、厚化粧の上の紅をゆがめて言った。SはAについてコインパーキングまで歩き、すでに乗りなれたベンツのエンジンをかけて走り出すと、いつも高級車に乗れるんだから、いい商売だよなぁ、とAが言うので、はい、いつもありがとうございますと先のママのように苦笑して返した。歓楽街を抜けるまでの間、時おりホストらしき、黒いスーツを着た金髪の若い男に何度もぶつかりそうになった。三か月前に巨大地震が起き、日本じゅうがやれ復興だ、脱原発だと騒いでいるのに、眠らない歌舞伎町は、毒々しいネオンに彩られながら夜の歓楽をむさぼっていた。
 ――たしか、五月からだったよな、一番街のネオンが再点灯したのは?
 ――そうですね。一時期はひっそりした感じがありましたけどね。
 ――あんたのところの会社はどうなんだい?……あれ…そういえばあんたが昼間何してるのか、まだ聞いてなかったなぁ。
 とこんな調子で、Sの素性調査が始まったのだった。歌舞伎町を出て明治通りを北上し、池袋の手前で山手線の外側へ出ると、山手通りを板橋区へ向けて走った。板橋に入ればあとは首都高速5号池袋線の真下を、和光市へ向けて走るのみだった。ベンツは夜の底を颯爽と走ったが、運転しながら己れの仕事について語らせられるSの胸中は爽やかではなかった。なにしろAときたら、イモノって何?と来るのである。鋳物すら知らないようでは金型もダイカストも説明のしようがなかったから、Sは面倒臭そうに一息吐いて、自身の勤める鋳物工場についてゆっくりと説いた。
 溶かした金属を金型に流し込んで鋳物を大量生産する鋳造法をダイカストと言い、工場は主に自動車部品として使われる鋳物を製造している。自動車メーカーの孫請けだか曾孫請けだか玄孫請けだかも、Sにはよく分からない、三十人ほどのエンジニアが働く荒川区の小さな町工場だ。たったこれだけのことだが、Sの説明にAが納得した頃、ベンツはとっくに郊外に至っていた。
 取り調べは腕の火傷痕に及んだ。溶かしたアルミは強い圧力をかけて噴出し、金型に流し込むのだが、その圧力が強過ぎたり、金型の寸法にズレがあったりなどすると、アルミの湯がその隙間にまで溢れ出てしまう。そうして型にこびりついた余計なアルミを除去する際に、Sは火傷を負ったのだった。首都高5号線の真下に差し掛かった時、Sはようやくひととおりの供述を終えた。
 それを、よくやるねぇ、そんな仕事。の一言で片づけられたのだから、ただでさえ穏やかでなかった胸中はさらに重苦しくなった。そうでなくても、三月十一日の大地震が被災地ばかりでなく日本じゅうのひとびとの生活と心に大打撃を与え、Sのそれにも地割れのような亀裂を生じさせていたのは間違いない。地震津波によって東北の産業はずたずたにされ、自動車メーカーの工場と下請け部品工場の多くが生産を停止した。すると当然のように、東京の小さな町工場である勤め先も注文が激減した。給料はなんとか払えるが、悪いがボーナスはない……と、五月のある日の朝礼の場で、全社員を前に工場の社長のGは苦渋の顔を俯けてつぶやいた。Sはそれを耳にした刹那、ふざけんな、と胸の中で叫んだものだったが、そう文句ばっかり言うことないじゃない、社長さんだって、本当はお給料払うのも苦しいんだからさぁ、と、その夜妻のRは台所で食器を洗いながら会社の悪口を連ねるSをなだめた。Sの中にうすぼんやりと副業の二文字が浮かんだのはその頃である。SとRは共働きをしているが生活は苦しく、都会の片隅でひっそりと暮らすにも、夫の賞与を当てにせずにはいられなかったが、それが貰えないとなると、やはりある程度の副収入の獲得に奔走しなくてはならなくなった。数日後、Sは運転代行業を営む会社を新大久保の雑居ビルの五階に訪ねた。副業を希望していることを率直に告げると意外にも話はとんとん拍子に進み、採用が決まった。最近はお前さんみたいな安月給の工場員がよく深夜の仕事を求めてくるなぁ、はっははは、これも震災の一つなんだろうなぁ、と社長のWは嗤った。でっぷりとした体が笑うたびにゆさゆさ揺れた。こうしてSは午後五時過ぎに工場の仕事を終え六時半ごろに自宅で独りの夕飯を済ませると、Rが美容院の仕事を終える七時ごろにふたたび副業に出かける日々をはじめた。副業へはRとすれ違いで出かけることになり、それが終わるのが深夜一時ごろだから、帰る頃にはRはもう寝ていることが多かった。Sは真っ暗な部屋でゆっくり着替えを済ませると、寝床へ入ってRに寄り添い、身体を抱いて寝た。真夜中の静寂の中、アパートの前の大通りを時おりバイクが騒音を撒き散らして通り過ぎた。そうしてまた朝七時くらいに起き出し、Rが寝ている中、工場へ出かける。ここ数週間は、そんな毎日だった。

(つづく)