アルミニウム(3)

 Aの家が近づいてきた。面倒臭い解説もやっと終わりだとSは思ったが、
 ――…あのさぁ、ちょっと寄ってもらいたいところがあるんだけど。
 とAはいきなり意想外なことを口にした。Sが疑問の目を向けると、Aはフロントガラスのはるか彼方を見るように、虚ろな目をして、
 ――ホタルを見に行こうよ。
 疑心暗鬼なまま、SはひとまずAの言う通りの方向へハンドルを切った。夜の住宅街を右へ左へ、いったいこんな郊外の住宅地の中にホタルの棲んでいる場所などあるものだろうかと訝りながら、五分ほどAの言いなりに進むと、果たしてベンツが行き着いたのは、正面に小さな夜間照明が一つ灯っているきりの、薄暗い怪しげな平屋の施設だった。Aが言うには、ここは動植物を飼育する公営の研究施設であるらしく、今日はゲンジボタルが小屋の中を飛び回る様子を無料で間近に見られるとのことで、なるほど入り口の周囲には親子連れやカップルらしき男女が群がっていた。
 ――期間限定だからさぁ、見逃すと来年まで見られなくなっちまう。なぁ一緒に見ようよ。
 この暑さの鬱陶しい夜にホタル狩りなどと風流を気取る心はSにはさらさらなかった。常連客が大切であることに変わりはないが、運転を代行して自宅へ送り届けるまでが義務であって、貸切タクシーのように好き勝手に連れ回されてもかなわなかった。
 ――すみませんが、私は仕事中ですので……。それに、こんなところでお客さんと油を売ってたら、後ろの相棒にバレちゃいますよ。
 相棒とは、このベンツのほんの数十メートル後から追いかけてきている随伴車のKのことである。運転代行をする車には、客を送った後にドライバーを乗せて一緒に事務所へ帰るための随伴車が、つねに後続している。
 ――いいじゃんかよ。向こうにコインパーキングがあるから、そこに停めて。
 Aは施設の方を指差した。
 ――でも……
 ――行けと言ったら行けよ。これ以上気分悪くさせるんじゃねぇよ!
 Aはいきなり怒声を発した。深酒をしている気配はないものの、虫の居どころがよくないようだった。Sはいやいやながらベンツを降りて、携帯電話を取り出してKを呼び出した。
(……もしもし。どうした?)
 ――武田です。ちょっと、秋葉さんが寄りたいところがあるらしくて、しかも、俺も誘われちゃって。……悪いけど、三十分ほど待機していてもらえる?
(もう一杯するのか?)
 Kはたいそう楽しそうである。声の奥ではやかましいラップが鳴っていた。
 ――ホタルを飼育している施設があるんだ。ここが、今日は無料開放していて、無料でホタルが見られるらしいんだよ。それで、Aさんに誘われて。
(ホタル!)
 Kは俄かにガハハハと笑った。そして一呼吸おくと意外な答えを返した。
(了解。会社には、お客さんがトイレへ駆け込んだらしいとかなんとか、取り繕っておくよ。俺もちょっと休みたいし。ゆっくりホタルを見てきなよ)
 Kはふだんの言動が軽薄なだけに、こうして懐の広さを見せてくれるのがSには意外だった。しかしそもそもS自身、この数週間はいっこうに晴れやかなことがなく鬱屈としていたので、ホタルを見に行こう、というAの打診は迷惑に感じていたものの、実のところ、心の奥底では満更でもなかった。だからKの答えはありがたくも感じたのだ。酔客のゲップの悪臭や、昼間の仕事の愚痴不満、罵詈雑言、嗚咽にまみれる運転代行ドライバーのSにとって、この時のホタルという一語は、胸の奥の暗がりを照らす小さな仄めきにひとしかった。でも、どうしてKは俺が客と油を売るのを承知したのだろう、Kはちょっと休みたいと俺に言ったが、運転代行の仕事に埋没して、昼夜の逆転した生活に明け暮れているはずのKがそんな風に言うのは解せない、またそれ以上に、フリーターのK――そう聞いていた――にとってこのアルバイトは唯一の収入源であるはずだから、金が欲しいのなら一晩に一人でも多くの客を送り届ける必要があるのであって、俺が呑気に客とホタルを見に行くのを迷わず承知するのはどう考えてもおかしい、と、Sは携帯電話を切る刹那に思った。すると即座にSの頭に閃いたのは、つい二時間ほど前、新大久保のビルの待機室で客の依頼を待っていた間にKと交わしたささいな会話だった。ささいではあったが、しゃべる必要のないことをついしゃべってしまったという驚きと後悔のために、しかと記憶されていた会話だった。しかしなぜあんなことを口走ったのだろうと思うと、それはひとえに、大地震に始まった厄災が、自分自身のエンジニア生活と夫婦生活に想像以上に重く圧しかかっているからだろうとしか思えない。

(つづく)