はかなくうつろうエプロンの色

   ○

 トン、トン、トン… と、キャベツを包丁で切る。いつもと変わらない。
 ようやく桜が散って、絵美の好きな新緑になった。窓から見える桜の樹に射す光の色は変わり、落ちる影の角度も変わった。空の青さも変わった。風の匂いも変わった。なによりも、芝生にひらひらと舞い踊るモンシロチョウが、包丁を握る絵美の気持ちを明るくさせた。何気ない朝食づくりの時間が、心躍るものに変わるのだった。
 トーストと千切りのキャベツ、プチトマトと目玉焼き、牛乳。誰もいないダイニングでラジオを聴きながら食べた。DJのハイテンションな声は流すにまかせて、内容を少しも意識していない。ただ、何かの音が欲しい。それだけだ。シンクに食べ終わった食器を置いた。
「ごちそうさま…」
 相変わらずモンシロチョウは草場の緑の中に遊んでいた。絵美はモンシロチョウに「美味しかった?」とでも訊かれたように、「美味しかったよー」と声をかけた。エプロンを外してたたんだ。うす茶色の色あせたエプロンである。使い始めてから数年間の、地味だけど豊かな日々がエプロンの色を褪せさせていた。その褪せ具合が絵美は好きだった。それは、寺の燈篭や石段が苔むすのを見る楽しさに似ていた。
 エプロンをたたみ、カバンにしまうと身支度を整えて、部屋を出た。
 週に三日、料理研究家の助手をし、それ以外の日は花屋で働いていた。絵美の好きなもの、それは料理と花だった。近い将来、美味しい料理とコーヒーが出て、季節の花がたくさん咲く小さなカフェレストランを開きたいと想っている。あとは「優しい旦那さんがいれば最高」という密かな願いもある。
 部屋のチャイムが鳴った。時間通りだ。ドアを開けると、親友の美紀がいた。絵美を見るなりニンマリと笑って、白ワインのボトルを突き出した。
「はぁーいっ! 今夜はヤケ酒会ね!」
「そんなんじゃないって…」
 絵美、ちょっと苦笑した。

   ○

「ま、自由になったと思ってさ。世の中の半分は男なんだから、まだまだ出会いはあるわさ! 幸田絵美、二十五歳! まだまだ若い!」
「ヤケ酒会なのになんでそんなにハイテンションなのよ」
「親友を元気づけようとガンバッてるんじゃないですかぁ!」
 美紀はいつになく頬が紅い。一緒に悲しもうとしてくれているのだろうか…
「大丈夫よ。わたし、社会人よ。一人だって立派に生きてくんだから」
「それがダメ! 女はね、守ってくれるステキな旦那様がいてこそ美しく輝くのよ」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すわよ。独身のモテモテシェフさん!」
「でもさ、健介とはさ、専門学校時代からだったから……五年でしょ?」
「……」
「やっぱり、寂しい?」
「寂しくない」
 美紀は紅い頬をして、優しい目と鋭い笑みを絵美に向けた。
「ウソつき」
「ホントよ」
「あんたの欠点はね、強がりなところ。もっと自分に素直にならなきゃいけないんだよ。もう恋なんてしないなんてぇ〜、言わないよゼッタイィ〜♪」
「ねぇ、それ、男のセリフじゃなかったっけ?」
「え、そうだっけ? ヘヘ」
 絵美は苦笑した。美紀のような友達を失いたくないと思った。
 健介は先週、絵美と暮らした2LDKからいなくなった。桜が満開の時だった。翌日、テレビの上に置いてあった、健介とのツーショットを収めたフォトフレームを絵美は捨てた。

   ○

 おそろいのマグカップを捨てた。健介が使っていたスプーンとフォークを片そろい捨てた。しばらくしてから、色ちがいのおそろいだった自分のも捨てた。健介だけが使っていた灰皿も捨てた。2LDKから健介の匂いを消すように、色々捨てた。
 絵美はキッチンに立つ時、花の世話をする時、ようするにエプロンを着ける時、確かに幸せだった。キッチンと花のある場所は、誰にも侵されることのない空間だったから。だから、今もそこそこ幸せである。片隅を彩る季節の花には毎日「おはよう」と言った。キッチンでの一と仕事の後、洗って立てかけてあるまな板の、いくつもの包丁の痕を見るとなんとも言えず嬉しかった。タイルの目地のかすかな油汚れを見ると、胸の中でキッチンに「いつもご苦労さん」と言った。すすいでカゴに入れた食器群には「お疲れさん」と言った。ソースを弱火でかき混ぜながらボーッと瞑想するのは、この空間での至福の時だった。
「絵美さん、エプロンの色が変わったわね」
 絵美が手伝いをしている料理研究家が言った。
「はい。前のやつ、捨てちゃったんです」
「いい色の褪せ具合だったのにね。どうして?」
 捨てるのは当然だった。健介の持ち物や健介からの贈り物は全て消していったから。
 それで良いと思った。思っていて、どこか胸の中にスポンと穴が開いたような気がした。その空洞を吹き抜けるむなしい風が絵美の気持ちをどよんとさせた。

   ○

「俺ってなんか、お前の彼氏っていうより、お客さんって感じじゃん」
 健介は最後にそう言った。彼も「絵美の空間」にやってきた客人の一人に過ぎなかったのだろうか。2LDKに一人でいてちっとも寂しくないのはなぜだろうか。考えても答えは出なかった。現に寂しくはないのだから、そのうちに考えなくなった。季節と共にキッチンに並ぶ食材も変わるし、部屋を彩る花たちもその色と形を変えた。静かな時が流れていた。
 しかし、何かが欠けている、何かがない、と時おり感じた。大好きな空間で毎日大好きなことをしているはずなのに、何かが足りない、と。
 ふとした拍子に、身体の中で小さな炎が煌々と燃え上がるのを感じたが、それは忙しさに埋もれてなんとなく消えていった。
 休みの日、部屋で本を読んでいるとチャイムが鳴った。玄関へ行って応えると、
「工藤健介さんに、お届けものです!」
「えッ!?」
 驚いた。
 絵美のたった一人の空間に、思わぬ客が来てしまった。小ぢんまりとした可愛い絵美だけの世界の一角を、突如占拠したのは、象牙色の二人がけのソファだった。先週、健介と行った家具店で買い求めたものだった。新品のレザーソファは二人が腰を下ろせば身体がぴったりくっつくようになる。肘掛けは丸く、木製の脚はチョコンと突き出て可愛らしさを強調していた。人の肌のような優しい象牙色のソファは、やたら輝いて見えた。
 絵美はなんだか急に心が燃えてきた。涙が止めどなくあふれて来た。象牙色のソファを見れば見るほど、理由もわからず悲しくなった。絵美は、ただただ泣いた。

   ○

 さわやかな新緑の最中だ。
「絵美さん、またエプロンの色が変わったわね。明るくなった。どうしたの?」
 料理研究家が言った。絵美はエプロンの色をブラウンから鮮やかな黄色にしたのだった。ブラウンの前は、紺色だった。
「ええ。なんとなく、です」
 ほかに答えようがないからそう答えた。本当に「なんとなく」、絵美はエプロンの色を変えたくなった。
 トン、トン、トン…と、キャベツを切る。いつもと変わらない。でも、何かが変わったように思う。

  おわり