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似顔絵師(2)

 その夜は飲み会が開かれた。第一グループを中心に社員十名ほどで、池袋駅前の大衆居酒屋へ繰り出した。メンバーには昭男の他に上野やあゆみの姿もあったが、清次は仕事を終えると一人でさっさと帰宅していた。
 普段の飲み会は愚痴や仕事観や人生論などの応酬となるが、今日は上野が「年末商戦へ向けて気合いを入れなおそう」とやたら意気込んでいた。昭男も今日ばかりは仕事の話がしたくて、乾杯すると真っ先に今日の「わらびストアーズ」のことを話し出した。
「木村の奴がお客さんにあんなに気に入られること自体、俺はどうも納得しにくいんですけどね」
 上野はモツ煮込みに七味をどっさり振りながら言う。
「ああいうことはようあんねん。俺かて、『上野さんが変わるんやったら取り引き止めますわ』って、よう言われたよ」
「大阪時代ですか?」
「そう。そん時、俺は涙出そうになったけどな。後任からすればえらい白ける話やったと思うわ」
 昭男は黙って聞いていたが、胸中では営業冥利に尽きるようなことを客から言われた清次が解せなかった。

 清次は今年いっぱいで退社することになっている。表向きは自主退社だが、事実上の諭旨解雇である。
 「TKビバレッジ」の本社オフィスに衝撃が走る事件が起きたのは、この夏のことだ。清次と、得意先の受付である女性社員との不倫が発覚したのである。ある蒸し暑い夜、得意先の従業員は友人と歌舞伎町の韓国料理店でたらふく食べた後、新宿駅の方へ歩いていくと、ラブホテルから連れ立って出てくる男女を見た。見覚えのある女だと思って目を凝らすと、果たして、会社で受付をしている「小林さん」であった。この逢引きの目撃はたちまち得意先と「TKビバレッジ」を巻き込む事件へと発展した。
 「小林さん」には夫も子もあった。しかも社内結婚なので夫は同時に同僚でもあって、清次も幾度か面会したことがある相手だった。
 清次は早急に得意先への出入りを禁じられた。「TKビバレッジ」の役員と上野は得意先を訪ね、ビジネスの外で起きたこととして、事件の穏便な処理を乞うた。幸い女性社員は夫と家庭内で話を済ませたらしく、離婚や訴訟には至らず、もちろん両社間にいかなる賠償も発生しなかったが、契約はきれいさっぱり解消された。
 得意先は清次の担当の中でも最大の売り上げを誇っており、この事件が「TKビバレッジ」にとって痛手だったことは疑いようがない。社長はじめ経営陣一同は悩んだ末、決断を下す。清次は懲戒免職こそ免れたものの自主退社を促され、今年いっぱいで「TKビバレッジ」を去ることになったのだ。むろん退職金や失業保険は適用される。
 清次の所業に対し、社内では「ただのバカ」から「あいつも男なんだから仕方ない」まで賛否あった。特に女性社員の中には、成績は芳しくないものの真面目で控えめな清次を気に入っていた者が多かったので、陰では「カッコいい」「男らしい」などの言葉すら飛び交ったほどだった。昭男は、それら清次に対する評価を耳にしつつも仕事に邁進して、清次のことは「仕事よりも恋愛が大切な卑しい奴」という程度に片づけていたのだった。
 しかし……「わらびストアーズ」の件は解せない。同期の俺との下品な会話を敬遠するようで、実は得意先の受付嬢との妖しい恋に耽っていたようなムッツリスケベが、その仕事ぶりで得意先から評価されていたとは受け入れがたい……。

 飲み会は仕事の話で盛り上がり、「じゃあ、年末商戦を全力で駆け抜けよう」という上野の言葉でお開きとなった。居酒屋の表で解散し、大半が山手線の方へ流れていく。昭男は隣の大塚駅付近に住んでいるため、西武池袋線の改札へ向かうあゆみと一緒に、皆に「お疲れ様」を言って別れた。「これから二人でホテルかよ!」と冷やかす先輩社員に苦笑いして。
「あたしはいいわよ。ホテル行く?」
 とあゆみは昭男をからかう。その眼には、男とはいつ、どのような関係にもなれる、とでもいうような自信があった。
「冗談じゃない。誰がお前なんかと。でも、週末だし、もう一杯くらいしていくか? 終電にもまだ時間がある」
「オッケー」
 二人は洒落たショットバーを見つけて入った。
 カウンターに腰掛けると同時に昭男は目をトロンとさせ、長い溜息を吐き、「今夜はバーボンにするか」とつぶやく。あゆみはマティーニを頼んだ。
 あゆみは昭男が社内でもっとも頻繁に飲みに行く相手である。十八歳で福島から上京し、大学で哲学を学びながら夜は歌舞伎町の安キャバクラに勤めていた。だから酒も煙草も喫むし、男との品のない会話も抵抗はない。シャツは襟を開いて胸元を見せ、スカートは短く履いてアピールしているから、これで顔が良ければ景気も上がるのだが、残念なことに、あゆみは鼻は平べったく目尻の垂れた不美人だった。おまけに社内の喫煙所では男たちと煙の中で下品に大口を開けて談笑し、「年収800万の男を捕まえたい」と公言する。金欲が深いのか浅いのか解らない上に、「キャバクラではナンバー2だった」と触れ回る。これも自慢なのか恥なのだか判断しがたい。けっきょく男たちの間では頭のネジのゆるんだ変わり者の田舎娘と片づけられ、女たちからも一線引いて接せられる残念な女だった。しかし言われたことには素直に従い、かつ思ったことを率直に言う裏表のなさにも救われ、事務にいつも無理難題を振る営業マンたちからは意外に愛されてもいた。お水の世界での経験で酒の席での動きも心得ていたから、営業の接待に同行することもあるほどである。そんなあゆみを昭男も苦にしなかった。よく飲みに出かけるばかりか、上司や仕事への不満を遠慮なく吐き出せる貴重な存在でもあったのだ。
「年末商戦を全力で……なんて言われてもな。ときどきこの仕事のアホくささに疲れるよ」
 と、昭男は毒ガスでも抜くように溜息を吐く。
「男は稼いでなんぼでしょうが。定年まで頑張りなさい」
「煎じ詰めれば、俺らの仕事は『お水』だろう? 会社の理念は『美味しいお飲物の提供を通してお客様の幸福と社会の未来に貢献する』なんて、ご立派だが、けっきょく売っているのは愚痴や陰口を垂れ流すための『お水』じゃないか」
 目の前にいるバーテンダーは黙っている。
「『水に流す』って言葉、あたしは大好きよ」
「簡単には流せないことだってある。人妻と不倫して会社辞める清次の尻拭いを、どうして俺がやらなくちゃならないんだよ」
「それは仕事として受け入れるしかないじゃない」
 昭男は豚のように鼻を鳴らし、「不満」を露わにした。
「俺も清次みたいに、どこかの受付嬢と遊んじゃおうかな」
 あゆみはちらと昭男を見る。その口元はわずかに逡巡したようだったが、静かに開かれた。
「清次くんのあの事件、そりゃ不倫だけど、淀川が思ってるようなものでもないのよ」
「…どういうこと?」
「清次くん、相手とは本気だったんだって。相手の女がどんなだか、あたしはまったく知らないけど。あたし一度ね、あの事件の後に清次くんと二人で飲んだことがあるの。そこでぜんぶ話してくれたわ。受付していた相手の女とは、まぁよくある不倫話みたいに、仕事を通して出会って、仲よくなって、一線も越えちゃったわけだけど、自分がこのまま浮気相手で終わるのか、相手に夫と別れてもらって結婚するのか、深刻に悩んだんだって。曖昧な関係に耐えられなくて、一度は退こうとしたんだけど、相手の女が『離婚してあなたと結婚するから』とまで言ったそうなのよ」
 昭男はまた豚のように鼻を鳴らした。
「ようするに、口車に乗せられて遊ばれていただけだろう」
「少なくとも清次くんは遊んでいたんじゃない、ってことよ。あたしと飲んだ時はけっこう酔っぱらったけど、女に対する悪口は一言も言わなかったよ」
 昭男は鼻で笑って返した。これ以上清次への弁護は聞きたくなかった。バーボンを干して「ごちそうさま」と言った。

 帰り道を一人で歩きながら、昭男は考える。
 嘘っぽい感じもするが、あるいは清次もあゆみのような女になら真情を吐露するかも知れない。しかし清次は…言ってしまえば、バカに過ぎない。営業では御用聞きばかりして成績は上がらず、冴えない郊外エリアの担当をあてがわれた。一世一代の恋らしき不倫に溺れるも、けっきょくは捨てられたわけだ。おまけに仕事まで失う羽目になったのだから、踏んだり蹴ったりじゃないか。清次は仕事でも恋愛でも明らかな敗者だ。俺なら、どのようにしても得意先から金をもぎ取るし、女にも、遊びはしても遊ばれることはない……。
 と、昭男はつぶやくように述懐した。その心には、会社の売り上げなど度外視しながら好き勝手に得意先の受付嬢との不倫に耽り、さっさと会社を去ることになりながらも、イタチの最後っ屁のようにつまらない郊外の得意先数社を押し付けた清次への微かな恨みが込められていた。しかし一方では、一見するとなすがまま周囲に翻弄されるようでいて、恨み節や負け惜しみの一つも口にしない清次の、なんとも言えない潔さのようなものへの感嘆と疑問も残されていた。
 煙草を吸う。フィルターを思い切り噛みつぶす。指でぐにゃりと曲げて、道へ投げ捨てる。

(つづく)