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アルミニウム(5)

 SとRに念願の子が授かったのは二月の寒い日のことだった。それまで長年二人きりで暮らしてきただけに、こうのとりの来訪は二人を狂喜させた。しかし子は翌月に流れてしまった。美容師の仕事が肉体的にも精神的にもRにとって想像以上の負荷になっていたというのが医師の分析だった。Rは悲しみに暮れた。Sもひどく落胆した。二人とも日々の激しい仕事のために心身に疲れを溜めていたばかりか、そろって休める日は一日もなく、共働きとはいえ贅沢ができるわけでもなかったから、生活はひたすら単調に続き、退屈さが募れば会話にも弾みがなくなって、二人の間には次第に影が差してきていた。清貧の思想など行う余裕は持ち合わせず、むしろ二人とも貧すれば鈍するを地で行っていたので、二人にとって子が宿ったのはまぎれもなく新しい生活を告げる黎明だったのに、それがあえなく流れ去ってしまったのだから、二人の間に差していた影は薄れるどころか、いっそう深く濃くなっていった。小さなことから口論になることもしばしばだった。
 そこへ三月十一日の地震が追い打ちをかけた。
 副業を始めたSは、どうして俺がこんな苦痛を背負わなくてはならないのか、いったい俺が何をしたのか……というやり場のない叫びを胸の内で繰り返した。怨もうにも怨む相手はどこにも無く、ただ目の前の義務に突き動かされて、夜の道を走るしかなかった。Rとは共にいる時間がまったくといっていいほど無くなり、交わす言葉も少なくなったのは言うまでもない。一時期は携帯電話でメールを送り合っていたが、それもお互い仕事が終わったことを報告する程度の味気ないもので、特に運転代行の仕事を終えた後は、メールを送ってもRはとうに寝ていて何の返信もなく、Sにはことさら空しく感じられた。
 Rの頬を平手で打ってしまったのは、そんな日々を送る中のある晩だった。その日、Rは休暇で自宅にいて、Sはいつものように工場から帰ると夕食を急いで食べ、ふたたび運転代行に出かけるところだった。はじまりはテレビ番組を巡ってのくだらない口論だったが、それが夫婦のどちらに生活の主導権があるかという議論に発展し、稼ぎの大小の話にまでなった。そんなたぐいの言い争いにまったく価値がないことは、少し冷静であればお互いに分かることだったが、一度口を吐いて出た相手への鬱憤は容易に止められなくなっていた。Rの発した言葉に身体がとっさに反応してしまったことを、Sは覚えている。しかし、果たしてそれがどんな言葉だったのかは一向に思い出せない。ただ、Rを打った瞬間に、深い後悔と自責の念に胸をえぐられたものの、目の前で頬を押さえ、俯いて泣くRにどんな言葉もかけられなかった。喉がカラカラに乾いていた。急いで着替えるとすぐに家を出た。残っているのはそんな断片的な記憶だけだった。
 その日からRとの交わりは絶えた。言葉も交わさず、メールも一切送り合わなくなった。同じ部屋にいても、二人はまるで赤の他人のように過ごした。Rとの間に生じたこの決定的な亀裂のために、Sの精神はますます荒んでいった。Rに許しを請うための言葉も見つからず、もしその言葉が見つかったにしても口に出す勇気はなく、勇気があったとしてもちっぽけな自尊心が邪魔をしたはずだった。しかし罪を犯したという自覚は日増しに大きくなっていって、ますますSを責め苛んだ。そして仕事は相変わらず忙しく、おまけにアルミ溶湯を浴びて気味の悪い火傷までこしらえてしまった。しかし皮肉なことに、その気味の悪さは、まさしくSの精神状態を表していた。もしいまここに、Sの心の根っこにわだかまっている言霊を定着させるならば、もう死にたい、という一語に尽きるであろう。この苦しい日々から我が身を消し去り、その代わりに、生まれずしてあの世へ行ってしまった小さな命を取り戻すことができれば、それはどれほどの僥倖であろうかとSは思っていた。この数週間というもの、精神が平安になることなどなく、何をどうすれば事態が好転するのかも皆目分からなかった。まるで出口のない密林にでも迷い込んだような絶望と失意のさなかに、Sはいた。
 Kの脚本の主人公の死が、Sのそんな心情を図らずも呼び起こすことになったのである。
 ――俺もそんな風に、かっこよく死んでしまいたいねぇ。
 ――え?何言ってるの、武田さん?
 ――ついこのあいだ、かみさんを殴っちゃったんだ……
 Kは手を止めてSを見た。ろくに整えていない乱れた髪が額から目へかけてばらりと垂れていて、輝きのない、細い一重の眼が虚ろに宙を眺めていた。
 ――おぉい、依頼が入ったぞ。いつものAさんだ。ゴールデン街へ行ってくれ!
 Wの太い声が会話をさえぎった。二人は話を止め、立ち上がるとすぐに事務所を後にした。エレベーターに乗り込むと、
 ――なぁ武田さん。さっき、いきなり何を言い出したんだ?まるで意味が分からなかったけど。
 とKが問うた。しかし当のSも、なぜあんなことを口にしたのか分からなかった。

(つづく)

アルミニウム(4)

 Kは隣でスポーツ新聞をめくるSの腕を見て、ぼそりとつぶやいた。
 ――武田さんの腕。ヒバクしたみたいだね。
 Kはところどころ破れて中のスポンジが見えている黒いフェイクレザーのソファに偉そうに寝転がって、スマートフォンをいじくっていた。
 ――縁起でもないことを言わないでくれよ。
 Sは記事を読みながら苦笑した。腕の火傷痕をヒバクと表現されたのはさすがに初めてだったが、なんだか言い得て妙のようにも思えて口元がほころんだ。Kが言い表そうとしたのは恐らく被爆だろうけれど、このごろ世間を飛び交っている被曝をも意識していたのは間違いなかった。KのそんなセンスにSは感心した。
 待機室は雑居ビル五階の事務所の片隅の、書類棚や山と積まれた段ボールに囲まれた窓際の狭苦しい場所だった。社長のWがキーボードを打つ音や冷蔵庫のうなり声が、部屋を仕切るパーテーションの向こうで鳴っていた。天井では蛍光灯がうるさい音を立て、雨の勢いよく当たる窓からは感度の悪いラジオのような雑音が聞こえた。十坪ほどの事務所にはSとKと、さっきからパソコンに向かっているWの他には誰もおらず、またSの察するところ、KもWも身の周りにはほとんど頓着することなく仮想空間に遊んでいるようだった。横からかすかに覗いたKのスマートフォンの画面にはツイッターのページが見え、Wはさっきからずっと、キーを叩いては椅子にふんぞり返ってディスプレイを眺め、時おりけたたましい笑い声をあげた。おおかたお笑い番組の動画のアーカイブでもチェックしているのだろうと、Sは推した。
 ――でもさぁ、ストロンチウムとかセシウムとかが東京にも飛んで来ているんだから、縁遠い話じゃないよ。ほんと、怖いよねぇ。
 とても本心から怖がっているとは思えない口調だった。
 ――この火傷はアルミニウムだから安心だよ。
 ――はははははははは。上手いこと言うねぇ、武田さん!
 Kは馬が大口を開けて笑っているような、阿呆みたいな笑顔を見せた。Sは思わず苦笑した。
 ――そうか、アルミで火傷をしたのか。武田さん、もしかして鋳物でも作っているの?
 Kが即座に鋳物という言葉を発したことにSは驚いた。スポーツ新聞を持つ手を下ろし、Kに向いて工場の仕事について一通り説明すると、Kはツイートしながらもふんふんと頷いて、妙に納得しているようだった。
 ――なんだか、よく知っている風じゃないか。
 ――以前、東京の下町の町工場のことを調べたことがあるんだよ。
 Kは大学では映画を学んでいたらしく、脚本の題材を求めて町工場の労働者のことを調べていた時期があったとのことだった。その脚本は一応は第一稿として成り立ったが、ゼミ生と講師には不評で、映像化されることなく今もKの部屋の押し入れの段ボールの中に眠っているという。SはKの話に聞き入っていたが、Kの方は話しながらネット上のつぶやきも休まず繰り返しているようだった。
 ――その脚本って、どんな話なの?
 Kは一度、タッチパネルの上を滑る手を止め、微かに笑った。
 ――しょうもない話だよ……
 とつぶやくと、ふたたびタッチパネルをいじくり始め、同時に過去の自作のあらましを語り出した。
 脚本の主人公は、下町の小さな自動車整備工場で働く若い整備工で、貧乏ながらも妻と手を取り合って健気に生きていた。待ち望んだ子がようやく妻の腹に宿るが、ある日、整備中の車を支える器具が外れて、下敷きになって命を落とす。残された妻は泣き崩れ、一度は後を追おうと思うが、子を夫の代わりと思い、一緒に強く生きていこうと決意する。そんな話だ。
 ――ははははは。つまらないだろう?
 ――まぁ、ありきたりではあるけれどね。
 とSは短く返したが、フリーター暮らしに埋ずもれた、いつまでもモラトリアムの中にいる腑抜けた若者という印象しかなかったKが、過去にこんなおセンチなシナリオを書いていたとは意外だった。しかしそれよりも、作業中の事故だとか、強く生きていこうだとかいう話は、Sには他人事とは思えなかった。特に、子が授かるという生の観念と、命を落とすという死の観念は、このごろSの心の奥深くにわだかまっている耐えがたい二律背反だったのである。

(つづく)

アルミニウム(3)

 Aの家が近づいてきた。面倒臭い解説もやっと終わりだとSは思ったが、
 ――…あのさぁ、ちょっと寄ってもらいたいところがあるんだけど。
 とAはいきなり意想外なことを口にした。Sが疑問の目を向けると、Aはフロントガラスのはるか彼方を見るように、虚ろな目をして、
 ――ホタルを見に行こうよ。
 疑心暗鬼なまま、SはひとまずAの言う通りの方向へハンドルを切った。夜の住宅街を右へ左へ、いったいこんな郊外の住宅地の中にホタルの棲んでいる場所などあるものだろうかと訝りながら、五分ほどAの言いなりに進むと、果たしてベンツが行き着いたのは、正面に小さな夜間照明が一つ灯っているきりの、薄暗い怪しげな平屋の施設だった。Aが言うには、ここは動植物を飼育する公営の研究施設であるらしく、今日はゲンジボタルが小屋の中を飛び回る様子を無料で間近に見られるとのことで、なるほど入り口の周囲には親子連れやカップルらしき男女が群がっていた。
 ――期間限定だからさぁ、見逃すと来年まで見られなくなっちまう。なぁ一緒に見ようよ。
 この暑さの鬱陶しい夜にホタル狩りなどと風流を気取る心はSにはさらさらなかった。常連客が大切であることに変わりはないが、運転を代行して自宅へ送り届けるまでが義務であって、貸切タクシーのように好き勝手に連れ回されてもかなわなかった。
 ――すみませんが、私は仕事中ですので……。それに、こんなところでお客さんと油を売ってたら、後ろの相棒にバレちゃいますよ。
 相棒とは、このベンツのほんの数十メートル後から追いかけてきている随伴車のKのことである。運転代行をする車には、客を送った後にドライバーを乗せて一緒に事務所へ帰るための随伴車が、つねに後続している。
 ――いいじゃんかよ。向こうにコインパーキングがあるから、そこに停めて。
 Aは施設の方を指差した。
 ――でも……
 ――行けと言ったら行けよ。これ以上気分悪くさせるんじゃねぇよ!
 Aはいきなり怒声を発した。深酒をしている気配はないものの、虫の居どころがよくないようだった。Sはいやいやながらベンツを降りて、携帯電話を取り出してKを呼び出した。
(……もしもし。どうした?)
 ――武田です。ちょっと、秋葉さんが寄りたいところがあるらしくて、しかも、俺も誘われちゃって。……悪いけど、三十分ほど待機していてもらえる?
(もう一杯するのか?)
 Kはたいそう楽しそうである。声の奥ではやかましいラップが鳴っていた。
 ――ホタルを飼育している施設があるんだ。ここが、今日は無料開放していて、無料でホタルが見られるらしいんだよ。それで、Aさんに誘われて。
(ホタル!)
 Kは俄かにガハハハと笑った。そして一呼吸おくと意外な答えを返した。
(了解。会社には、お客さんがトイレへ駆け込んだらしいとかなんとか、取り繕っておくよ。俺もちょっと休みたいし。ゆっくりホタルを見てきなよ)
 Kはふだんの言動が軽薄なだけに、こうして懐の広さを見せてくれるのがSには意外だった。しかしそもそもS自身、この数週間はいっこうに晴れやかなことがなく鬱屈としていたので、ホタルを見に行こう、というAの打診は迷惑に感じていたものの、実のところ、心の奥底では満更でもなかった。だからKの答えはありがたくも感じたのだ。酔客のゲップの悪臭や、昼間の仕事の愚痴不満、罵詈雑言、嗚咽にまみれる運転代行ドライバーのSにとって、この時のホタルという一語は、胸の奥の暗がりを照らす小さな仄めきにひとしかった。でも、どうしてKは俺が客と油を売るのを承知したのだろう、Kはちょっと休みたいと俺に言ったが、運転代行の仕事に埋没して、昼夜の逆転した生活に明け暮れているはずのKがそんな風に言うのは解せない、またそれ以上に、フリーターのK――そう聞いていた――にとってこのアルバイトは唯一の収入源であるはずだから、金が欲しいのなら一晩に一人でも多くの客を送り届ける必要があるのであって、俺が呑気に客とホタルを見に行くのを迷わず承知するのはどう考えてもおかしい、と、Sは携帯電話を切る刹那に思った。すると即座にSの頭に閃いたのは、つい二時間ほど前、新大久保のビルの待機室で客の依頼を待っていた間にKと交わしたささいな会話だった。ささいではあったが、しゃべる必要のないことをついしゃべってしまったという驚きと後悔のために、しかと記憶されていた会話だった。しかしなぜあんなことを口走ったのだろうと思うと、それはひとえに、大地震に始まった厄災が、自分自身のエンジニア生活と夫婦生活に想像以上に重く圧しかかっているからだろうとしか思えない。

(つづく)

アルミニウム(2)

 六月の厭な雨夜だった。
 その夜八時過ぎ、依頼を受けたSがゴールデン街の店を訪ねると、Aは目をとろんとさせて、よぉ、来たか、と笑った。ママはカウンター越しにSに苦笑しながら、ごめんねぇ、よろしくねと、厚化粧の上の紅をゆがめて言った。SはAについてコインパーキングまで歩き、すでに乗りなれたベンツのエンジンをかけて走り出すと、いつも高級車に乗れるんだから、いい商売だよなぁ、とAが言うので、はい、いつもありがとうございますと先のママのように苦笑して返した。歓楽街を抜けるまでの間、時おりホストらしき、黒いスーツを着た金髪の若い男に何度もぶつかりそうになった。三か月前に巨大地震が起き、日本じゅうがやれ復興だ、脱原発だと騒いでいるのに、眠らない歌舞伎町は、毒々しいネオンに彩られながら夜の歓楽をむさぼっていた。
 ――たしか、五月からだったよな、一番街のネオンが再点灯したのは?
 ――そうですね。一時期はひっそりした感じがありましたけどね。
 ――あんたのところの会社はどうなんだい?……あれ…そういえばあんたが昼間何してるのか、まだ聞いてなかったなぁ。
 とこんな調子で、Sの素性調査が始まったのだった。歌舞伎町を出て明治通りを北上し、池袋の手前で山手線の外側へ出ると、山手通りを板橋区へ向けて走った。板橋に入ればあとは首都高速5号池袋線の真下を、和光市へ向けて走るのみだった。ベンツは夜の底を颯爽と走ったが、運転しながら己れの仕事について語らせられるSの胸中は爽やかではなかった。なにしろAときたら、イモノって何?と来るのである。鋳物すら知らないようでは金型もダイカストも説明のしようがなかったから、Sは面倒臭そうに一息吐いて、自身の勤める鋳物工場についてゆっくりと説いた。
 溶かした金属を金型に流し込んで鋳物を大量生産する鋳造法をダイカストと言い、工場は主に自動車部品として使われる鋳物を製造している。自動車メーカーの孫請けだか曾孫請けだか玄孫請けだかも、Sにはよく分からない、三十人ほどのエンジニアが働く荒川区の小さな町工場だ。たったこれだけのことだが、Sの説明にAが納得した頃、ベンツはとっくに郊外に至っていた。
 取り調べは腕の火傷痕に及んだ。溶かしたアルミは強い圧力をかけて噴出し、金型に流し込むのだが、その圧力が強過ぎたり、金型の寸法にズレがあったりなどすると、アルミの湯がその隙間にまで溢れ出てしまう。そうして型にこびりついた余計なアルミを除去する際に、Sは火傷を負ったのだった。首都高5号線の真下に差し掛かった時、Sはようやくひととおりの供述を終えた。
 それを、よくやるねぇ、そんな仕事。の一言で片づけられたのだから、ただでさえ穏やかでなかった胸中はさらに重苦しくなった。そうでなくても、三月十一日の大地震が被災地ばかりでなく日本じゅうのひとびとの生活と心に大打撃を与え、Sのそれにも地割れのような亀裂を生じさせていたのは間違いない。地震津波によって東北の産業はずたずたにされ、自動車メーカーの工場と下請け部品工場の多くが生産を停止した。すると当然のように、東京の小さな町工場である勤め先も注文が激減した。給料はなんとか払えるが、悪いがボーナスはない……と、五月のある日の朝礼の場で、全社員を前に工場の社長のGは苦渋の顔を俯けてつぶやいた。Sはそれを耳にした刹那、ふざけんな、と胸の中で叫んだものだったが、そう文句ばっかり言うことないじゃない、社長さんだって、本当はお給料払うのも苦しいんだからさぁ、と、その夜妻のRは台所で食器を洗いながら会社の悪口を連ねるSをなだめた。Sの中にうすぼんやりと副業の二文字が浮かんだのはその頃である。SとRは共働きをしているが生活は苦しく、都会の片隅でひっそりと暮らすにも、夫の賞与を当てにせずにはいられなかったが、それが貰えないとなると、やはりある程度の副収入の獲得に奔走しなくてはならなくなった。数日後、Sは運転代行業を営む会社を新大久保の雑居ビルの五階に訪ねた。副業を希望していることを率直に告げると意外にも話はとんとん拍子に進み、採用が決まった。最近はお前さんみたいな安月給の工場員がよく深夜の仕事を求めてくるなぁ、はっははは、これも震災の一つなんだろうなぁ、と社長のWは嗤った。でっぷりとした体が笑うたびにゆさゆさ揺れた。こうしてSは午後五時過ぎに工場の仕事を終え六時半ごろに自宅で独りの夕飯を済ませると、Rが美容院の仕事を終える七時ごろにふたたび副業に出かける日々をはじめた。副業へはRとすれ違いで出かけることになり、それが終わるのが深夜一時ごろだから、帰る頃にはRはもう寝ていることが多かった。Sは真っ暗な部屋でゆっくり着替えを済ませると、寝床へ入ってRに寄り添い、身体を抱いて寝た。真夜中の静寂の中、アパートの前の大通りを時おりバイクが騒音を撒き散らして通り過ぎた。そうしてまた朝七時くらいに起き出し、Rが寝ている中、工場へ出かける。ここ数週間は、そんな毎日だった。

(つづく)

アルミニウム(1)

 ――ところでその、腕にまばらに付いている火傷の痕はいったい何だい?
 ――はぁ……これは、溶けたアルミの湯が飛び散って……。ようするに、金型を掃除する時、こびりついたアルミを一度溶かさないといけませんので、金型の中に腕を突っ込んで、ガスバーナーで溶かすんですが、その時にジュワッと弾け飛ぶんですよ、アルミが。それで、こんな火傷に。
 ――よくやるねぇ、そんな仕事。
 助手席のAは、Sの左腕を覆う気味の悪い火傷痕を凝視して、はァと溜息を吐いた――途端にスコッチと煙草の匂いの混じった口臭がSの鼻を突いた。火傷の痕は真っ暗な車中では確認できないが、車が街灯の下を通るたびに、ハンドルに伸びる左腕と共に闇の中に浮かび上がり、火傷痕もその不吉な表情を現した。Aはその瞬間を見逃さなかったのだ。Sは暑苦しさのために半袖のシャツを着てきたことを悔いた。Aがいかに常連客とはいえ、運転代行のドライバーという立場を越え本業のことを語らなくてはならない理由はなかった。いつもは形式ばかりの安全運転でのろのろ走って時間を稼ぐのだが、Aを送り届ける先は承知しているから、さっさと届けてさよならしようと、アクセルを踏み込んだ。
 ――おぉ、飛ばすねぇ。
 Aが重低音でうなった。フロントガラスの雨粒が、街灯のやわらかい光を受けて闇の中に星空のように煌めいた。

(つづく)

似顔絵師(6)

 師走はせわしなく過ぎていった。昭男たちはすでに年始、春へ向けての活動を始め、あゆみたちは事務処理に焦り、工場は生産に追われていた。
 一年が終わろうとする、師走のこの慌ただしいわずかな数日間が、昭男は好きだった。会社を見ても世間を見ても、誰もが自分の仕事をきれいに片づけ、往く年を無事に送ろうとせわしく動き回っている。こういう時、人間は皆、巨大な何かに動かされている、等しく小さな存在だと思えるのだった。愚かでもあり、尊くもあり、何だか愛おしくなってくるのである。そんな感慨を一人楽しんでいるうちに、「TKビバレッジ」は仕事納めの日を迎えた。
 最終日は得意先に、今年の御礼と来年以降の付き合いをよろしくお願いするだけだった。営業マンたちは朝礼を終えると、さっさと外出した。昭男は都心と埼玉南部の挨拶をさっさと終えてしまうと、昼過ぎには本社に帰ってきた。オフィスでは皆がすでに忘年会へ繰り出す楽しみにうきうきしているようだった。
 ふと、隣の清次のデスクが目に入った。誰も使っていないデスクのように何もなく、本人もいない。
 「そういえば今日は木村の最終日だったんだ……」と昭男は思った。しかし得意先は全て金村や昭男に引き渡したのだから、外出する理由もないはずである。
「あゆみ。木村は、今日はどうしているの?」
 と、あゆみのデスクを見ると、色鉛筆で描かれたカラフルな似顔絵が置いてあった。あゆみの平べったい鼻と垂れた目を上手く特徴として描き、かつ可愛らしく表した優しい似顔絵だった。昭男の脳裏にすぐに清次の顔が浮かんだ。
「清次くんなら、昼食で外出した切り、まだ戻っていないわよ」
 聞くと、清次は朝礼が終わった後に少し書類整理などをしていただけで、あとは特に何もせず、昼になるとさっさと外へ出て行ったらしい。
「お前……この似顔絵は、木村からもらったの?」
「そうよ。これまでありがとう、って」
 あゆみは何だかそっけない。「それにしても、上手い似顔絵だ」と昭男は感じた。自分はとんと絵心のない男だが、まるであゆみがそこに笑っているかのように見えるこの似顔絵に胸中で感嘆した。「似顔絵師になる」と言っていた清次の言葉は、嘘ではなかったのだ。
 そんなことをふと感じはしたが、昭男は、辞め行く清次に何の未練もなく、することもなかったので、ふらりと外へ出て、気の赴くまま、近くの公園まで歩いて行った。
 だだっ広い公園には、ベンチで携帯電話をいじっている学生らしき若者や、同じく携帯電話に夢中のサラリーマン、そしてホームレスらしき汚い格好の男が数人、することもなく時間を浪費していた。年の瀬のムードは好きだが、こういうダラケた連中は嫌いだった。
「淀川!」
 呼ぶ声の方を向くと、ベンチに座り、鳩の群れに囲まれる清次が昭男に向かって手を挙げていた。
 正直、今日みたいな気分のすぐれた日に、清次のような男と落ち着いて話す気はなかった。話すと、何だが気分を害しそうだからだ。しかし、自分とはまるで違う考えを持つ清次と話すのも、正真正銘、これが最後の機会だろう。それに、清次はいつになく上機嫌なようである。「夕礼までのわずかな時間、こいつと雑談でもして過ごしてみるか」と思った。
「お前、何しているんだ」
 と、ベンチに歩み寄った。昭男がベンチに近づくにつれ、鳩の群れは散らばっていった。
「今日で最後だけどすることもないから、公園にいただけだ」
「あゆみに似顔絵を贈ったのか」
「ああ。川村にはけっこう世話になったからな」
 昭男には清次に対し、もはや一寸の共感も敬意も抱いていなかった。否、自分が営業として精一杯生きていくため、清次を受け入れるのを胸の奥で拒絶していた。
「木村、お前、日本中を旅するとか言っていたよな。もう、明日から出かけるのか?」
「ああ。アパートを引き払って、家族にも誰にも挨拶せず、ひっそり消えるとするよ」
「消える?」
「ああ。水が蒸発するように、社会から消える。地縁も血縁も諦める。日本のどこかで、ただ似顔絵を描いて生きる」
 荒川の土手で清次の話したことが、脳裏に蘇ってきた。あの時と同じく、清次には嘘を吐く気配も、キザな素振りもない。涼しげでいて、根拠のない強さがあった。
 昭男はにわかに眉を寄せて清次を睨んだ。
「お前は、頭がイカレてるな。旅とか似顔絵とか、夢みたいなことばかり言いやがって。結局は、毎日働いて生きる現実に耐えられないんだろう」
 清次は昭男の罵声を静かに受け止め、黙っていた。公園は静かだった。気力のない学生やサラリーマンやホームレスがたむろし、どんよりした空気に浸されていた。それは若くて清新な昭男の持つ血気や、仕事と生活への確信とは、あらかじめ無縁のものである。清次は静かに口を開いた。
 ――異論を唱えるつもりはないが、俺は似顔師きとして、真面目に働いて生きていくつもりだ。ただ、周りを押し退けないと自分が押し退けられるようなサラリーマンの世界が、どうも性に合わないだけだ。もっとも、これは俺の偏見なのかも知れないが。
 母さんが死んでしばらくの間、俺は日本を放浪した。父さんはすっかり信心深くなったが、俺は精神的にかなり乱れていて、学問もサークルもアルバイトも手につかず、東北地方を巡りながら、安宿で毎晩酒を喰らっていた。家に閉じこもる「ひきこもり」の逆で、外に閉じこもる「外こもり」のようなものだったろうか。
 ある日、通りかかったお寺で縁日が開かれていて、がらくたやお面や骨董を売る連中の中に、似顔絵屋があった。似顔絵師は五十代くらいのひげもじゃの汚い男だったが、さすが絵描きらしく、服装のセンスがよかった。俺の顔を描いてもらった。聞くと、似顔絵師として日本中を放浪して生きているらしい。俺は昔からマンガ好きの延長で絵を描くのが好きで、美大を出たということもあったし、男が同じ東京出身というから、意気投合……いや、俺の方が一方的にまとわりついて、その夜は赤ちょうちんで一緒に一杯やった。
 男は東京出身ということ以外、生い立ちも名前も明かさなかった。「地縁も血縁も、ぜんぶ捨てたからなぁ」と、猪口を傾けてニヤニヤしていたのを覚えている。締りのない「なぁ」が、今でも印象的だよ。
 縁日や地域のイベントを転々としながら、来る日も来る日も似顔絵を描く。あらかじめ描きためた有名人の似顔絵も売り、客の依頼も受けて描いて、生活はギリギリだと言っていた。自由だが、孤独で、救いはない。的屋の世界にはきびしい掟もあるらしい。だが、俺は絵を描くのが好きだし、自分の才能で勝負する方が、たとえ負けても――野垂れ死にしても、悔いがなくていい。翌朝男と別れてから一人で海辺を歩いて、俺はそんなことを思った。芸大の美術科を出ておきながらすっかり絵から離れていたが、絵への情熱が、胸の中で静かに再燃していた。
 男は文字通り、日本中を巡っているようで、「東京なら、上野へ足を運ぶことがあるなぁ。その時は、公衆電話から連絡入れるから、来てくれよ」と言い残した。信用しなかったが、俺は携帯電話の番号を渡しておいた。本当に電話がかかってきたのは、半年後だ。風が冷たくなり、木々の葉も落ち始めた冬の初めごろだった。俺はすっかりうれしくなって、上野公園に会いに行った。似顔絵師になりたいと莫然と思いながらもちゃっかり就職活動をして、「TKビバレッジ」の内定をもらった、ほんの数日後だったと思う。
 男は西郷さんの近くで似顔絵屋をやっていたが…ひどく身体を弱らせていた。寒さを逃れて南下する途上だったらしいが、「読みが外れて、寒波にやられた」とのことだった。額を触ると、ひどく熱かった。俺はとにかく家へ連れて行って看病しようと思ったが、男は強く拒否した。「人の世話になんかなりたくねぇ」と、締りのない低い声で唸っていた。男は金もないので、段ボールにくるまって寝るという。俺はひとまずその日は帰ったが、不安と後悔で一睡もできなかった。本当に馬鹿だった。そういう時は警察に保護を求めるべきだろうが、それをやったら、あの男はどう思うだろうかという迷いが生じて、何もできずに一夜を過ごした。翌日の明け方、すぐに上野公園へ行ってみると、男は相変わらず悶えていた。俺は男を抱き起した。そして、瞼や唇を震わせ言葉すら発しない男を見て、「ああ……きっと、もう死ぬんだろう」と悟った。男はついに一言も発しなかった。色鉛筆と水彩絵の具で汚れた男の冷たい手を握り、俺は、静かに最期を看取った。
 亡骸は警察が引き取ったが、ついに男の氏素性はわからずじまいだった。行旅死亡人として、役所によって火葬された。
 男は俺に何も残さなかった。でも、「地縁も血縁も、ぜんぶ捨てたからなぁ」という、あの締りのない馬鹿のような笑い顔だけは今でも鮮明に覚えている。人の縁なんて、曖昧なもんだ。男はあらゆる縁を断ち切ったが、ひょっとしたら、それで幸せだったのかも知れない。
 どんな人も、この世に裸で生まれてきて、裸で死んでいく。最後は粉々になって、消えて行く。そんな風に思ってからというもの、俺は会社で生きていくのがすっかり馬鹿らしくなった。籍は置いても、心はどこか旅の空という感じだった。飲料の営業なんて、まるで身が入らなかった。よく二年以上も続いたものだと思うよ。
 けっきょく、得意先の受付が俺に引導を渡したことになるか。俺は一度、本気であの女との将来を考えたが、哀れな結末になった。笑われても一向に構わない。
 そんなわけで、俺はもうまともな生き方を降りようと思う。淀川には恨みも悔いもない。ただ、俺がひっそりみんなの前から姿を消そうとしているところを、むやみに罵倒されたのが不服だったから、ちょっと言い訳をしてみたまでだ。気にしないでくれ。

 金村と昭男の健闘により、得意先は年末商戦を好成績で乗り切り、「TKビバレッジ」本社も予算を達成した。上野をはじめとした全社の中間管理職と経営陣が話し合い、今年の営業MVPは昭男に決まった。夕礼時に発表された。昭男にとっては、決算賞与とボーナスとMVPの報奨金とが一挙に渡される幸福な日となった。
 社員たちは昭男に拍手を送り、上野は昭男の肩を叩くと、握手を求めた。
「ようやった。でも、まだまだ伸び盛りや。来年も頑張って、この会社を盛り立ててくれよ」
 終業すると、本社社員一同、陽気に忘年会へ繰り出すことになった。楽しそうに騒ぎながら事務所を後にする同僚や先輩たちの背中を見つめながら、昭男は清次のデスクを見た。
 清次の姿は、すでにどこにもなかった。けっきょく、今日が最後の日だった清次のことを気にかける者は誰一人いなかった。

 ―終―

似顔絵師(5)

 引き継ぎはその後、何の支障もなく進んだ。どの得意先でも、「わらびストアーズ」のように清次の退任が必要以上に惜しまれることはなかった。引き継ぎの帰り道の車中で、清次は「ああまであっさり了解されても、悲しいものだよな」と苦笑していた。
 一方で昭男は引き継ぎに対し、むずがゆい二律背反があった。次第に盛り上がってくる年末商戦の熱気に乗り遅れまいと焦るために感じる面倒くささと、刻一刻と退社の迫る清次ともっとじっくり話したいという焦燥とが入り混じっていた。
 しかしながら、年末商戦への意気はともかくとして、清次に感じる焦りのようなものは何か。昭男は時おり自分の心をたずねてみるものの、その正体をつかみかねていた。

「淀川、『さいたまフーズ』さんから電話!」
「はあい。……なんだろう?」
 昭男の勝負は、あゆみがつないでくれた電話から始まった。
 先日、清次から昭男にスイッチした郊外型の巨大スーパー「さいたまフーズ」は、取り引き先数社から年末の大売り出しを盛り上げる企画を待ち望んでいるという。「TKさんも、何か考えてくれないかな」ということだった。
 昭男はにわかに奮起した。上野に同行を乞うて「さいたまフーズ」を訪ね、大売り出しや担当者の意向、競合の出方などをこまかく聞いた。「さいたまフーズ」は各店舗でドリンクコーナーを広く設けている。企画が通れば、一気に売り上げを伸ばす大型受注になる。帰り道で上野は「淀川。一発いけるチャンスやで。おもろなってきたな」とつぶやいた。昭男は大きく頷き、ハンドルを握る手に力が入った。
 さっそく社内で第一グループが集い、作戦会議が開かれた。スーパー利用客の年齢層や所得などから、どんな手法ならドリンクが目につきやすく、手に取ってもらいやすいか、またそもそもスーパーへ入ってきた客がどんな経路でドリンクコーナーに向かうか…などなどなど、売り場と買い物客を分析し、最適な販促プランを検討していった。
 前任という理由で清次も会議の末席に加わっていた。「さいたまフーズ」がどのような企画を好むか、担当者の性格や好み、競合との付き合いのほどなど、清次でなければわからない情報で、新担当としてまだ日の浅い昭男の知識を補充した。会議は深夜にまでおよび、第一グループメンバーは皆、終電で帰宅したばかりか、自宅に歩いて帰れる昭男にいたっては日付が変わっても社内に残り、企画を練り続けた。
 上野は帰る間際、昭男にこう言い残した。
「営業ほどおもろいもんはないやろ。若いうちにその醍醐味をよう味わっとけよ」
「はい!」
 昭男は燃えに燃えた。
 「さいたまフーズ」のすべての直営店に頻繁に足を運び、売り場を見て回った。一方で自分がかねてから担当している都心の大手小売店への営業活動も一切怠らなかった。師走に差し掛かり、世間はクリスマスだの正月だのと浮かれてきたが、昭男はさらに熱く、都心と埼玉を駆け回っていた。清次のことなどどこかへ消えていた。
 昭男が苦心の末に練り上げた企画は、「おいしい、年越し。」という名だった。架空の家族を設定し、祖父母、両親、男女の子供のキャラクターをイラストポップにしてドリンク売り場に配置し、それぞれ年越しを連想させるシーンとともにドリンクをアピールするというものだった。
 昭男はさっそく会議で企画の内容をグループメンバーと共有し、「さいたまフーズ」を訪ねる日を決め、上野と同行、プレゼンテーションを行った。

 結果はすぐに出た。翌日、あゆみが取り次いだ電話で、昭男は勝利を知った。
「今年の年末はTKさんに任せますよ」
 という「さいたまフーズ」担当者の一声が、昭男の勝ちを告げていた。第一グループは大型受注に大歓声をあげた。同僚らは昭男を囲み、握手したり肩を叩いたりして喜びを分かち合った。上野も、全力を出し切った部下に拍手を送っていた。昭男は久しぶりに大きな仕事を成功させた充実感に浸されながら、喫煙室へ行って一服した。
 喫煙室の窓外の景色は周囲のビルに阻まれてほとんど見られないが、ビルの隙間から射す西日が、昭男の吹く煙を白く浮かび上がらせた。
 ……やり切った。面倒くさい木村の得意先の引き継ぎや、仕事へのちょっとした疑問があったものの、大きな仕事を納めることができた。この数週間の心の動揺は、たぶん、一種の発作に過ぎなかったのだ。スポーツマンが味わうスランプのようなものに、ほんのわずか、俺も陥っていただけだ。一と仕事終えた後の煙草は、やっぱり旨い。

「やったな。淀川」
 と、清次が入ってきて言った。清次も煙草に火を点けた。
「さいたまフーズさん、このところドリンクの売り上げが伸び悩んでいたんだ。淀川の企画で、きっと年末は伸びるよ」
「……景気も少しずつ回復しているしな」
 昭男は、いきなり清次に礼を言われたことに内心驚いていた。「俺が大きな仕事を取ったことが悔しくはないのか?」と聞こうとしたが、やめた。清次には、自身が為し得なかった仕事を昭男がいきなり為し得たことに、悔しさなどまったくないだろう。いつものように、涼しい顔をしている。こっちは大変な思いをしてやっと仕事を得たのに、前任者のこの余裕ぶりはいったい何なのか……。率直な気持ちを確かめてみようかと思ったが、それもやめた。どうせ暖簾に腕押しで、「俺は淀川ほど仕事に熱意はないから」などと、平然と言ってのけそうだった。
「お、二人して何してんねん」
 上野まで突然入ってきて、煙草を吸い始めた。
「おう、淀川、決算賞与、間違いないしやで」
「本当ッスか!」
「当たり前や。お前の受注で一気に予算達成になるからな。今日は打ち上げやることになったから、早う仕事終わらせろ」
「はい」
 上野はすぱすぱと吹かすだけ吹かして、すぐ灰皿に押し込むと、さっさと出て行こうとしたが、ふり返った。
「ほんまにようやった。前任者がなんもせぇへん、無責任な奴やったから、一時はどうなることかと思うたやろ」
 目の前に清次がいるにも関わらず上野は遠慮なく言った。清次は顔を強ばらせた。昭男は清次の微妙な動揺を見逃さなかったが、清次のことなど、すでにまったく気にかけていなかった。
「いやぁ大変でしたよ。仕事のできない能無しの尻拭いをしながら営業活動するんですから」
「ははははは。まぁ今日は、辞めてく奴なんか抜きにして、楽しく飲もうや」
 と言うと、上野は出て行った。昭男も煙草を消し、出て行こうとする間際、清次の顔をチラと見た。
 清次の顔にいつもの涼しさはなかった。ただ、鋭い眼で無心に昭男を射ていた。その瞳には、悔しさとも失望とも受け取れない、妙な威力があった。昭男は刹那、歩みを動揺させたが、すぐに重心を取り戻し、喫煙室を後にした。
 「怒らせたかな……」と小さくつぶやいたが、美味しい酒に胸が騒いで、そんな雑念はすぐに消えた。

(つづく)