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似顔絵師(4)

 大型受注が一件あった。決めたのは先輩の金村だった。全国に大型ショッピングセンターを展開する得意先で、鍋料理の小さなレシピを商品近くに置き、いろいろな鍋料理とともに飲み物を提案するプランが採用された。商品の納入も拡大し、売れ行きの伸びも大いに期待されている。
 本社ではさっそく成功事例の報告と共有のための会議が開かれた。金村から企画の趣旨や具体策が一通り説明され、お開きになると、昭男とともに席を立った上野は昭男に顔を寄せて小声で言った。
「お前もかっ飛ばせよ」
 上野の激励を聞くと、昭男は俄然、闘志が湧いてきた。年末商戦を好成績で乗り切り、売上予算を達成すればうれしい決算賞与がついてくる。最近はリーマン・ショックの影響で全体的に需要が低迷していて美味しい思いができなかったが、景気が少しずつではあるが上向き始めているのも事実だった。金村の大型受注がそれを示していた。
 その夜、第一グループの十名は会議室で営業会議を開いた。昭男も清次も金村も参加し、業務の進捗や新規契約の候補、売り上げ増を見込める得意先を報告し合い、共有した。昭男はいつになく熱が入っていたが、得意先の引き継ぎの他に義務のない清次は隅で大人しくしていた。
「木村の引き継ぎはどうや?」
「あと一件です」
 上野の問いに金村が答える。指先でズレを正した眼鏡の奥には、真面目そうな細い目が光っていた。
「淀川は?」
「あと四件です。お得意さんも忙しいみたいで、時間がかかっています。すみません」
「早めに終わっとけよ。この時期は本来なら新提案をどんどんやってる時期やからな」
 清次と昭男はよわよわしく口をそろえて返事した。
 昭男はイライラしていた。金村に続いて自分も会心の受注をしたいところだが、「引き継ぎ」が足枷だった。清次との同行の日程を確認しながら、焦燥に駆られ、スケジュール帳をボールペンの先でゴツゴツ叩いた。
 昭男は深夜まで残業した。その日は珍しく上野も日報の処理で遅くまで残っていて、最後は二人で一緒に本社を施錠して帰ることになった。
「木村の得意先の引き継ぎの件、悪いな。ドカンと大きな受注をしたいとこやけど、しばらく我慢してくれ」
 音もなく動くエレベーターの中で、上野がぽつりと言った。
「とんでもないです。埼玉のお得意さんも、上手くやれば大きな仕事になりそうなところがありますし」
「そう言うてくれるとありがたいけどな。木村も、いきなり迷惑なことをしてくれたもんや」
 上野は溜息を吐く。昭男は上野の嘆息に意味深なものを感じた。清次をただ迷惑がるのではない、諦念のような愁いを含んだ目つきであった。
「……いつも目立たずにちょこんとしてるのに、けっこう隅に置けない奴ですよね。あいつは一体、何を考えて生きているんですかね」
 ふたたび上野は溜息を吐く。エレベーターが一階に着き、扉が開く。
「木村は、俺らとはちょっと常識の違う奴や。思い切り働いて会社に貢献して、給料上げていこうということを、そもそも考えとらん。普通に仕事して、普通の暮らしを営むことが幸せらしいんや。本人が言うとった」
 二人はサンシャインシティの脇を通って池袋駅へ向かっていた。平日の深夜である。昼間の喧騒はすっかり消え失せ、人通りもまばらで、生ごみの袋に食らいつく猫や風に舞うスポーツ新聞が、昭男の目にはどこかむなしかった。自動販売機の前でたむろする十代らしき男女の群れを横目に、昭男は上野の語る清次の話を聞いた。
 ――ずいぶん前のことやけど、木村とはな、一度二人で腹を割って話し合うたことがあるねん。あいつの成績が一向に良うならんもんやから、仕事とか自分の将来に対してどう思うてんのか、本音を引き出させたんや。そうしたらあいつ、
「今の営業の仕事は、生きていくために必要だけど、必要以上に熱心になれないし、それほど魅力も感じてない」
 と、堂々と言いよった。俺を前にしてようそんな言葉吐けるな、思うたわ。うちみたいな、中堅にも手が届かん小さい会社を伸ばしていく上で、あるまじき考えや。ぶん殴ったろうか、思うたけど、俺も人を評価する立場になってたもんやから、こらえて、あいつの言い分をよう聞いてみた。
 …あいつな、まだ学生だった頃に、母親を亡くしてんねん。親父さんは池袋で不動産屋を経営してるそうで、それまではベンツ乗り回してえらい稼いでたらしいけど、奥さん亡くしたことがよっぽど痛かったのか、以降はすっかり生き方が変わってしもうたそうや。酒も煙草も女遊びもきっぱりやめて、毎朝仏壇に手ぇ合わせるようになったばかりか、身体まで鍛え始めて、東京国際マラソンとか地方のトライアスロンの大会とかに出るようになったんやて。あいつも同じ心境だったかどうかは知らんけど、多感な時期に、母親亡くして父親も豹変してしもうたもんやから、若いなりにいろいろ考えたんやろ。……あいつ、俺に、
 「会社のために社員がいるんじゃなくて、社員のために会社があるんじゃないですか?」
 て、えらい真面目な顔して訴えてきよったわ。俺は身を粉にして、なんもかんも会社に捧げてきて、それが当たり前や思うてたけど、あいつの言うことも一応、間違うてない。そやから、なんも言い返さんかった。それがあいつの常識なんや。その常識の上では、不倫とはいえ、仕事相手と恋に落ちるのも是とされるわけやろ。…あほくさ。

 池袋駅に着いた。話は途中のような感じだったが、上野は「じゃあな」と手を振り、改札の奥へ消えて行った。
 昭男には、上野の後ろ姿が少しばかり悲しげに見えた。上野の背中を見て、その場に暫く立ち尽くしていた。
 「TKビバレッジ」は今でこそ三百人ほどの社員を抱え、大阪と名古屋にも支社を持つまでになっているが、ここまでの成長を遂げてきた要因として、上野の存在がとてつもなく大きいことを、昭男は知っていた。上野は生え抜きで大阪支社に入り、あっという間に支社のトップセールスになったスターである。大手小売店を次々に落とすその腕前を買われて二十代のうちに本社に呼ばれ、東京でも大手競合を相手に、鏤骨の努力によって市場を切り拓いた。四十歳を過ぎてからは育成に回り、第一線を退きながらも次代のトップセールスを輩出しつづけている。まさに営業一筋、会社一筋の男である。営業社員が皆、上野に憧れ、尊敬しているのは言うまでもない。昭男も同様であった。
 しかし、同様でありながらも、昭男は上野の正反対に近い考えを持つ清次にも、一寸の共感があることを否定できずにいた。昭男は、清次が「わらびストアーズ」の部長にああまで気に入られていた理由がわかった気がした。清次には、営業としてのある種の「邪念」がほとんどない。売り上げにつながりそうなところへ集中して訪問したり、自分を必死に売り込んだりすることに、はなから冷めている。そんなことよりも、自分と気が合い、尽くしたいと思える得意先に、どこよりも尽くすのだろう。それも、必要なだけ。

(つづく)

似顔絵師(3)

 やさしい秋の風に細い髪をなびかせ、清次は昭男にボールを投げる。
「少し前の暑さが、嘘みたいだよな」
 と、唐突に言う。もはや十一月である。この夏はとんでもない暑さが続いたが、過ぎてみればあっという間のことだったようにも感じる。
 今日の引き継ぎは住宅街の中の小さなスーパーだったが、そこでは清次は惜しまれもせず、あっという間に済んだ。会社に戻っても早すぎるが、昼飯にも早い時間なので、「荒川の土手でちょっとぶらついてみるのはどうだ?」と昭男が誘ったのである。胸の内には、清次という人間をもう少し理解してみたい気持ちもあった。清次は意外にもうれしがって、
「そんなら、土手でキャッチボールでもしようぜ」
 と言い出した。聞くと清次は営業の合間に公園などで壁あてをして時間つぶしをすることがあるということだった。グローブはトランクに二つあるといった。
「実は、お客さんと遊んだりもするんだ」
 と珍しくニカッと笑った。昭男は楽しそうな清次をいぶかりながらも、一緒に土手へ降りて、キャッチボールを始めたのだった。
「引き継ぎも残りわずかだな」
「ああ。金村さんへの引き継ぎもそろそろ終わるから、あと少しだね」
 「金村」とは、一年先輩の第一グループの営業マンである。清次は金村と昭男の二人に自分の得意先をほぼ二分して引き継ぎをしていた。
「年末からは…長い休暇になるのか?」
 何気なく昭男は切り出す。
「ああ。長い長い、終わりのない休暇になるよ」
「終わりのない休暇? なにを気取っていやがる」
 昭男がそう言うと清次は涼やかに笑った。昭男は、これまで清次が何かに必死になったり、焦ったりしているのを見たことがなかった。この三年間の記憶を思い起こすに、清次は一貫して余裕で、爽やかそのものだったように感じる。不倫の発覚の時も、口を閉めて神妙にしていたが、決して困惑や憤りを露わにすることはなかった。しかし、もしかすると清次は胸に湧き起こるあらゆる感情を、顔に出す手前で鎮めているのかも知れない。柔らかい表情の奥には激情がほとばしっているのかも知れない。昭男はここ数日でそんな風にも感じている。
 清次はどちらかというと痩身である。決して血色のいい方ではない丸い貌は、ともすれば病弱に見えなくもない。それでいて目つきはやたら鋭く、見ようによっては執念深そうにも見える。だからひょろひょろとしてはいるが侮れなさそうな雰囲気も持っている。そして普段から表情が優しく涼しげで、何事にも動じないようなところもあるから、こちらは強く出ればいいか下手に出ればいいのかわからないのである。
 アカデミーにでも身を置いていれば、鋭い感性を武器に独自の理論を展開する特異な学者、として通用しそうでもある。しかし営業マン――特に「お水」の営業マン――には体育会系の礼儀正しさや愚直さ、目標を最後まで諦めないど根性や貪欲さが求められるし、そうすることで好かれもする。清次は真面目な方だが、外見には体育会系のそれのような気色はなく、だから外見をもって営業の現場で得することは滅多になかっただろう。ただ、社内でも女からの受けは悪くない。芯の弱い女なら、この目に射すくめられれば容易になびいていきそうでもある。もっとも、これはあゆみの話を肯定的に捉えた場合の昭男の想像であった。
 荒川土手にサラリーマンの姿は他にない。あるのは、サイクリングや散歩など、老後を優雅に楽しむ年寄りの姿ばかりである。このような光景からも、郊外という土地がいかに都心の喧しさから縁遠いかがうかがえる。それは、昭男にとっては「いかにつまらない土地であるか」ということと同義であった。
「お前、会社辞めたら何するの?」
「どうして?」
「ちょっと気になるだけだ」
 清次は鼻で笑う。昭男はにわかにムッとした。
「人のことなんか気にしていたら、営業成績に響くんじゃないか?」
 昭男は虚を突かれた気がした。確かにそうだ。普段の自分なら、寸暇を惜しんで営業活動に打ち込み、昼間から同僚と呑気にキャッチボールなどしたりしない。だが、年末商戦に差し掛かる時季でありながらも、なぜだか、清次の振る舞いや思想が気になって仕方ないのである。
 昭男の放る球は、微妙に力が衰えていた。清次はあたかもその微細な差異を感じ取ったかのように、
「わかった。淀川になら、話すよ。俺は……似顔絵師になって、日本中を放浪しようと思っているんだ」
「放浪?」
 「ああ」と清次は頷く。その顔にはキザな気配も、かといって自分の意図を包み隠す遠慮も見当たらない。この男は終始、涼しげなのである。
「自分探しの旅みたいなものか?」
 昭男は「暇人だなぁ」と付け加えたい気分であった。
「そんなことには興味ない。ほら、『寅さん』っていう映画があるだろう。でも、俺は、故郷に帰るつもりはない。柴又に帰らない寅さんみたいになると言えば、正解かな」
「どういうことだ?」
「よくお祭りなんかに行くと、的屋がいっぱい並んでいるだろう。ああいうのに連なって、似顔絵を描こうと思っているんだ」
 昭男はポカンとしていた。

(つづく)

似顔絵師(2)

 その夜は飲み会が開かれた。第一グループを中心に社員十名ほどで、池袋駅前の大衆居酒屋へ繰り出した。メンバーには昭男の他に上野やあゆみの姿もあったが、清次は仕事を終えると一人でさっさと帰宅していた。
 普段の飲み会は愚痴や仕事観や人生論などの応酬となるが、今日は上野が「年末商戦へ向けて気合いを入れなおそう」とやたら意気込んでいた。昭男も今日ばかりは仕事の話がしたくて、乾杯すると真っ先に今日の「わらびストアーズ」のことを話し出した。
「木村の奴がお客さんにあんなに気に入られること自体、俺はどうも納得しにくいんですけどね」
 上野はモツ煮込みに七味をどっさり振りながら言う。
「ああいうことはようあんねん。俺かて、『上野さんが変わるんやったら取り引き止めますわ』って、よう言われたよ」
「大阪時代ですか?」
「そう。そん時、俺は涙出そうになったけどな。後任からすればえらい白ける話やったと思うわ」
 昭男は黙って聞いていたが、胸中では営業冥利に尽きるようなことを客から言われた清次が解せなかった。

 清次は今年いっぱいで退社することになっている。表向きは自主退社だが、事実上の諭旨解雇である。
 「TKビバレッジ」の本社オフィスに衝撃が走る事件が起きたのは、この夏のことだ。清次と、得意先の受付である女性社員との不倫が発覚したのである。ある蒸し暑い夜、得意先の従業員は友人と歌舞伎町の韓国料理店でたらふく食べた後、新宿駅の方へ歩いていくと、ラブホテルから連れ立って出てくる男女を見た。見覚えのある女だと思って目を凝らすと、果たして、会社で受付をしている「小林さん」であった。この逢引きの目撃はたちまち得意先と「TKビバレッジ」を巻き込む事件へと発展した。
 「小林さん」には夫も子もあった。しかも社内結婚なので夫は同時に同僚でもあって、清次も幾度か面会したことがある相手だった。
 清次は早急に得意先への出入りを禁じられた。「TKビバレッジ」の役員と上野は得意先を訪ね、ビジネスの外で起きたこととして、事件の穏便な処理を乞うた。幸い女性社員は夫と家庭内で話を済ませたらしく、離婚や訴訟には至らず、もちろん両社間にいかなる賠償も発生しなかったが、契約はきれいさっぱり解消された。
 得意先は清次の担当の中でも最大の売り上げを誇っており、この事件が「TKビバレッジ」にとって痛手だったことは疑いようがない。社長はじめ経営陣一同は悩んだ末、決断を下す。清次は懲戒免職こそ免れたものの自主退社を促され、今年いっぱいで「TKビバレッジ」を去ることになったのだ。むろん退職金や失業保険は適用される。
 清次の所業に対し、社内では「ただのバカ」から「あいつも男なんだから仕方ない」まで賛否あった。特に女性社員の中には、成績は芳しくないものの真面目で控えめな清次を気に入っていた者が多かったので、陰では「カッコいい」「男らしい」などの言葉すら飛び交ったほどだった。昭男は、それら清次に対する評価を耳にしつつも仕事に邁進して、清次のことは「仕事よりも恋愛が大切な卑しい奴」という程度に片づけていたのだった。
 しかし……「わらびストアーズ」の件は解せない。同期の俺との下品な会話を敬遠するようで、実は得意先の受付嬢との妖しい恋に耽っていたようなムッツリスケベが、その仕事ぶりで得意先から評価されていたとは受け入れがたい……。

 飲み会は仕事の話で盛り上がり、「じゃあ、年末商戦を全力で駆け抜けよう」という上野の言葉でお開きとなった。居酒屋の表で解散し、大半が山手線の方へ流れていく。昭男は隣の大塚駅付近に住んでいるため、西武池袋線の改札へ向かうあゆみと一緒に、皆に「お疲れ様」を言って別れた。「これから二人でホテルかよ!」と冷やかす先輩社員に苦笑いして。
「あたしはいいわよ。ホテル行く?」
 とあゆみは昭男をからかう。その眼には、男とはいつ、どのような関係にもなれる、とでもいうような自信があった。
「冗談じゃない。誰がお前なんかと。でも、週末だし、もう一杯くらいしていくか? 終電にもまだ時間がある」
「オッケー」
 二人は洒落たショットバーを見つけて入った。
 カウンターに腰掛けると同時に昭男は目をトロンとさせ、長い溜息を吐き、「今夜はバーボンにするか」とつぶやく。あゆみはマティーニを頼んだ。
 あゆみは昭男が社内でもっとも頻繁に飲みに行く相手である。十八歳で福島から上京し、大学で哲学を学びながら夜は歌舞伎町の安キャバクラに勤めていた。だから酒も煙草も喫むし、男との品のない会話も抵抗はない。シャツは襟を開いて胸元を見せ、スカートは短く履いてアピールしているから、これで顔が良ければ景気も上がるのだが、残念なことに、あゆみは鼻は平べったく目尻の垂れた不美人だった。おまけに社内の喫煙所では男たちと煙の中で下品に大口を開けて談笑し、「年収800万の男を捕まえたい」と公言する。金欲が深いのか浅いのか解らない上に、「キャバクラではナンバー2だった」と触れ回る。これも自慢なのか恥なのだか判断しがたい。けっきょく男たちの間では頭のネジのゆるんだ変わり者の田舎娘と片づけられ、女たちからも一線引いて接せられる残念な女だった。しかし言われたことには素直に従い、かつ思ったことを率直に言う裏表のなさにも救われ、事務にいつも無理難題を振る営業マンたちからは意外に愛されてもいた。お水の世界での経験で酒の席での動きも心得ていたから、営業の接待に同行することもあるほどである。そんなあゆみを昭男も苦にしなかった。よく飲みに出かけるばかりか、上司や仕事への不満を遠慮なく吐き出せる貴重な存在でもあったのだ。
「年末商戦を全力で……なんて言われてもな。ときどきこの仕事のアホくささに疲れるよ」
 と、昭男は毒ガスでも抜くように溜息を吐く。
「男は稼いでなんぼでしょうが。定年まで頑張りなさい」
「煎じ詰めれば、俺らの仕事は『お水』だろう? 会社の理念は『美味しいお飲物の提供を通してお客様の幸福と社会の未来に貢献する』なんて、ご立派だが、けっきょく売っているのは愚痴や陰口を垂れ流すための『お水』じゃないか」
 目の前にいるバーテンダーは黙っている。
「『水に流す』って言葉、あたしは大好きよ」
「簡単には流せないことだってある。人妻と不倫して会社辞める清次の尻拭いを、どうして俺がやらなくちゃならないんだよ」
「それは仕事として受け入れるしかないじゃない」
 昭男は豚のように鼻を鳴らし、「不満」を露わにした。
「俺も清次みたいに、どこかの受付嬢と遊んじゃおうかな」
 あゆみはちらと昭男を見る。その口元はわずかに逡巡したようだったが、静かに開かれた。
「清次くんのあの事件、そりゃ不倫だけど、淀川が思ってるようなものでもないのよ」
「…どういうこと?」
「清次くん、相手とは本気だったんだって。相手の女がどんなだか、あたしはまったく知らないけど。あたし一度ね、あの事件の後に清次くんと二人で飲んだことがあるの。そこでぜんぶ話してくれたわ。受付していた相手の女とは、まぁよくある不倫話みたいに、仕事を通して出会って、仲よくなって、一線も越えちゃったわけだけど、自分がこのまま浮気相手で終わるのか、相手に夫と別れてもらって結婚するのか、深刻に悩んだんだって。曖昧な関係に耐えられなくて、一度は退こうとしたんだけど、相手の女が『離婚してあなたと結婚するから』とまで言ったそうなのよ」
 昭男はまた豚のように鼻を鳴らした。
「ようするに、口車に乗せられて遊ばれていただけだろう」
「少なくとも清次くんは遊んでいたんじゃない、ってことよ。あたしと飲んだ時はけっこう酔っぱらったけど、女に対する悪口は一言も言わなかったよ」
 昭男は鼻で笑って返した。これ以上清次への弁護は聞きたくなかった。バーボンを干して「ごちそうさま」と言った。

 帰り道を一人で歩きながら、昭男は考える。
 嘘っぽい感じもするが、あるいは清次もあゆみのような女になら真情を吐露するかも知れない。しかし清次は…言ってしまえば、バカに過ぎない。営業では御用聞きばかりして成績は上がらず、冴えない郊外エリアの担当をあてがわれた。一世一代の恋らしき不倫に溺れるも、けっきょくは捨てられたわけだ。おまけに仕事まで失う羽目になったのだから、踏んだり蹴ったりじゃないか。清次は仕事でも恋愛でも明らかな敗者だ。俺なら、どのようにしても得意先から金をもぎ取るし、女にも、遊びはしても遊ばれることはない……。
 と、昭男はつぶやくように述懐した。その心には、会社の売り上げなど度外視しながら好き勝手に得意先の受付嬢との不倫に耽り、さっさと会社を去ることになりながらも、イタチの最後っ屁のようにつまらない郊外の得意先数社を押し付けた清次への微かな恨みが込められていた。しかし一方では、一見するとなすがまま周囲に翻弄されるようでいて、恨み節や負け惜しみの一つも口にしない清次の、なんとも言えない潔さのようなものへの感嘆と疑問も残されていた。
 煙草を吸う。フィルターを思い切り噛みつぶす。指でぐにゃりと曲げて、道へ投げ捨てる。

(つづく)

似顔絵師(1)

 この上ないくらい爽やかな秋晴れだけど、昭男は、どうも今日は気乗りがしない。
「煙草、吸うよ?」
 一本取り出し、運転席の清次に見せて聞く。
「構わないよ」
 清次は答えると、助手席側のウィンドウを少し開けた。冷たい風が隙間から流れ込んできて、昭男の髪を乱した。昭男が吹いた煙はたちまち窓からの風に飲み込まれ、かき消されていく。
 埼玉県の南部で多数のスーパーマーケットを展開している「わらびストアーズ」の本社は、蕨市の外れにある。営業担当を木村清次から淀川昭男に引き継ぐ目的で、二人は本社の商品担当の部長を訪ねることになっていた。
 昭男は力の抜けた目で窓外に目をやった。荒川の土手には、フリスビーを投げて飼い犬を走らせている飼い主らしき老人や、サイクリングをする者らが、晩秋の空の下で楽しそうである。昭男はため息を一つ吐く。
「『わらびストアーズ』ってさ、埼玉の郊外だけに手を広げて経営しているんだっけ?」
「そうだよ。地域密着型」
「一族経営?」
「まあね」
「面倒臭そうだな。ビジネスとは違う感覚で物事を判断しそうで。億劫だよ」
「いや、それは大丈夫。専務も商品担当の部長も社長の親戚だけど、みんな話のわかる人ばかりだよ」
「あっそう……」
 昭男はそれ以上聞くつもりはなく、また窓外へ目をやった。

 昭男と清次は、池袋に本拠を置く清涼飲料メーカー「TKビバレッジ」の営業部第一グループに所属している。約三年前に同期として入った二人は、長いこと同じ現場で戦った。昭男は攻めのタイプの営業で成績はよく、中堅のトップセールスの先輩にも売り上げ額で幾度も肉薄したことがあった。一方の清次はというと、これが押しの弱い男で、かといって引きもよろしくなく、成績はつねに下から数える方が早かった。
 営業マンの資質など配属後半年もすれば判ってしまうものである。第一グループの担当エリアは東京都全域と埼玉の南部、神奈川は川崎市の北部や町田市にまで及んでいて、昭男はもっとも競争の激しい都心の大手広域ユーザーを多数任され、清次は郊外ののどかな地域密着型スーパーのいくつかを任されることとなった。そうなれば、昭男は訪問と提案を重ねて成績を伸ばす。逆に清次は浮き沈みのゆるやかなベッドタウンをとぼとぼ回る日々を過ごす。二人の成績の差はみるみるうちに歴然たるものになっていった。二人の営業マンとしての約三年間をごく大雑把にまとめるなら、昭男は営業の快楽を貪ったと言えて、清次は地味で退屈な御用聞きをし続けたと言えるだろう。
 昭男はバックミラーに映る、次第に小さくなる都心のビル群を、渋面を作って見つめる。清次がいきなり会社を退くことにならなければ、郊外の小規模なスーパーの担当になど、なることはなかったのだ……。
 昭男と清次は同期社員として入社して以来、しばらくは週末の同期飲み会などを頻繁に催し、やれ部長の息が臭いだの、先輩の女子社員のおっぱいがデカいだのと一緒に騒いだものだった。しかし清次は昭男の下品な振りに愛想よく応じるものの、それ以上の反応を示すことはなかった。
「淀川ぁ。あんたが下らない話ばっかりするから、清次くんつまらなそうじゃん、やめてあげなよ!」
 と、もう一人の同期で営業事務の川村あゆみがよく制止したものだった。
 昭男の方も、スポーツの話題にしろ女の話題にしろ、何をぶつけても食いつきに乏しい清次を、胸の内で物足りなく感じていた。次第に二人の会話は冷め、清次はやがて飲み会そのものに参加しなくなった。二人は第一グループ同士でデスクは近いが、仕事中も話をほとんどしなくなり、双方とも相手への関心が失せていった。そしてそろそろ年末商戦に差し掛かろうという矢先に、清次の退社が決まった。昭男は清次が担当していた物件のいくつかを突如引き継ぐこととなり、訪問に時間がかかるわ、売り上げは低いわ、予算は余計にのしかかるわ……。気持ちが明るくなるはずがなかった。

 「わらびストアーズ」の本社は住宅街の一角にある支店の階上にあった。昭男はだだっ広い駐車場に立ち、周囲を高層ビルに遮られることのない社屋を見上げ、「とんでもない田舎へ来たもんだ」と胸中でつぶやいた。
 部長に面会し、清次はさっそく営業担当を昭男に引き継ぐことを告げた。部長は急にくちびるをとんがらせ、
「えッ、木村さん変わっちゃうんだ!」
「はい。私も残念ですが、実は…退社することになりまして。今後は弊社の淀川がしっかりと務めていきます」
「よろしくお願いします」
 昭男は目いっぱいの営業スマイルを作って会釈した。部長はニタリとして清次に言う。
「クビ?」
「はははは。まあ、そんなところです」
 と応じる。すかさず昭男は清次の胸を叩いてツッコむ。
「コラコラ。根も葉もないことを言わないように!」
 三人してカラカラ笑ったが、部長は急に表情を硬くした。
「本当に辞めちゃうの、木村さん。どうして?」
「まぁ、その。一身上の都合でして……」
「辞めて、次に何をするのさ?」
「いま考えているところです」
「じゃあウチに来る?」
「ははは。ご冗談を……」
 清次は終始ペコペコしていた。部長は一応納得しれくれたものの、別れ際まで硬い顔を崩さなかった。

 無事に引き継ぎを済ませたと思い本社に戻ってみると、事態は急転していた。部長から「TKビバレッジ」に直接電話があり、「TKさんとの取り引きを停止する」と言われたらしい。二人は驚いた。清次が慌てて部長に電話すると、「木村さんは熱心に通ってくれたけど、新しい人がどれだけ情熱を傾けてくれるか、わからないしねぇ」との言いようである。清次はしつこく食い下がったが、部長の意向が変わる様子はなかった。清次は諦めて受話器を置いた。
 二人はすぐに「わらびストアーズ」に出直そうとしたが、第一グループリーダーの上野が制して、二人を会議室へ連れて行った。
「お客さんによっては、営業マンが気に入られてしもうて、それだけで取り引きが続くことがようある。でも木村、お前、請求をごまかしたりはしてへんやろな?」
「そんなことは絶対にしてません!」
 上野は冷静に清次の話を聞くと、営業事務からもデータを取り寄せ、ことの次第を総合していった。
 話はこうである。永い間、「わらびストアーズ」での「TKビバレッジ」の商品は売れ行きが悪かった。理由は商品力の弱さと清次の企画力の不足である。競合はマーケットを分析し、売り場も研究して次々に面白い販促企画を提案してきたが、清次にはそこまで頭が回らなかった。「わらびストアーズ」の商品会議では「TKビバレッジ」との取り引きを止めようという話が幾度も起こっていたが、部長が「TKさんは担当者が熱心に通ってきてくれてるから」と譲らなかった。役員たちも、部長のこだわりを容易に退けることはできなかった。ようするに、部長が経営者の親戚だからこそ「TKビバレッジ」は取り引きを絶たれずに済んでいたのだった。
「どうやら、ほんまに木村が気に入れられてたんやな」
 上野は腕を組み、ぼそりとつぶやいた。清次もどうしようもなく、押し黙っていた。
 もっと煮え切らないのは昭男である。自分なら、競合より優れた企画を提案し、シェアを取っていく自信があった。だけれどこの状況では口の出しようがなく、客が離れ、さらに予算がかさむのを、黙って受け入れるしかなかった。

(つづく)

二人の盗賊

   □

 ある寒い日のこと。新聞に大きなニュースが出た。山で検問を張っていた警察が、一人の盗賊を検挙した。盗賊は、その町の巨大な美術・宝石商「G」に忍び込み、大量の宝石を盗み出した。盗難に気づいた警備員が警察へ通報。急いで町の周りに検問を張った警察の勝利だったという。
 そのニュースには一つの珍事件が添えられていた。検問を張っていた山に、一人の老画家がいて、警察犬に追われ、危うく噛み殺されそうになったという事件だ。夜空の月を眺めて絵を描いていたということで、もちろん何事もなく釈放されたが、それがニュースを読む人々の笑いを買った。
 捕まったのは、世界各国を股にかけて宝石や美術品を盗み去っていた、「怪盗Y」という有名な盗賊だった。Yは数日後、縛り首になって死んだ。

   □

 Yはその町の美術・宝石商「G」に忍び込む前夜、酒場でAという男に会った。
「あんた、怪盗Yだね。フッフッフ。知ってますよ」
 と言われて、Yは驚いたが、話すうちにAも同業者、つまり盗賊であることがわかった。AはYと違い、まったく無名の盗賊ということだったが、盗みの技術に関してやたら詳しいのでYは疑わなかった。それどころか意気投合し、一緒に「G」に盗みに入って、宝石を山分けしようということになった。
「Aさん、あんた無名だが、大盗賊だね。あんたと組むのは、かなり面白そうだぜ」
「私はスリルが好きなだけなんだ。それほど宝石には興味がないんですよ」
「ヘヘヘヘ。謙遜するねぇ!」
 翌日、二人は月の輝く夜空の下、町に流れる大きな川にかかる橋の上で落ち合った。二人は「G」に忍び込み、見事、数十億円に相当する宝石を盗み出した。何の痕跡も残さず、すっぽりと「G」の倉庫からたくさんの名品、珍品の数々が消えうせた。
 YとAは早く国外へ出るため、国境の山を登った。追っ手は影も形もない。余裕の二人は、ちょっと疲れたこともあって、誰もいない山小屋に入り、休息をとった。
「うまくいきましたね」
「Aさん、あんたやっぱりかなりの腕だよ」
「好きこそものの何とやら、というヤツですよ」
「ところで、「G」というのは裏でかなりあくどいことをやっているの、ご存知で?」
「いいや、初耳ですね」
「裏で金持ち相手のオークションを主催してるんですが、そこには世間があっと驚くような行方不明の財宝が出るそうですよ」
「……盗品ですか?」
「そう。オレたちがこうして盗んだ宝石やら美術品の多くがそこで売られるんでさ。オレも出品したことがあるけどね。ヘッヘッヘ。そうそう、噂だけど、中にはね、巨匠・レオポルドの『月夜の女神』があそこの倉庫に眠っているそうで。ヘヘヘヘヘ」
 Yは可笑しそうに笑った。
「ああ、数年前に美術館から盗まれたっていう?……」
「そう。「G」なんてろくでもない美術商だよ。あんなところから盗んだって、悪いとも何とも感じねぇや」
「はははは。違いないですね」
 ろうそくだけを灯した暗い部屋で、二人は煙草の煙りにまかれて談笑していた。 やがてYが立ち上がって言った。
「さぁ、そろそろ国境を越えよう」
「ねぇ、二手に分かれませんか?」
「どうして?」
「警察が検問を張ってないとも限らない。国境を越えた町で落ち合いましょう」
「大丈夫ですよ。あんたもオレも、プロだ。「G」が倉庫から大量の宝石が消えてるのに気づくのは、明日の朝のことですよ」
「いやぁ、念には念を入れた方がいい。宝石を均等に二つに分けて、別行動しましょう」
 Yは鋭い目でAを見た。
「ちょっと待て。どうして宝石を分けたがるんだ。解せねぇな。あんたが持ってる宝石の方が高額ってことも有り得る。何を狙ってんだ?」
「いやぁ、違う。万全を期した方がいいだけで……」
「あんた、何者だ?」
 Aは言葉に詰まったが、やがて観念したように話し始めた。
「すまない。許してくれ、オレだけ国境を越えずに町へ戻ろうと思ったんだ…。実はオレには、女房と子どもがいてね。食うものも満足に与えてやれてない。これまでずっとコソ泥をしていたが、酒場であんたを見た時、これは大きな仕事ができると思って……」
「ふぅん…」
「だから、宝石を山分けして、ここでおさらばできないだろうか…」
「まぁ、オレは不服じゃねぇがな…」
 Aは喜び、宝石を均等に二つに分けた。Yは用心深く、Aの様子をうかがっていた。Aは懐から小さな酒瓶を取り出して、
「じゃあ、最後に乾杯をしようじゃないか」
「待ちな。そんなの飲まねぇぞ」
「え?」
「毒が入ってるかも知れねぇ」
「そんな、馬鹿な」
「ますます解せねぇヤローだ」
 Yは懐から拳銃を取り出し、Aに向けた。
「宝石を全部よこせ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「いいや、待たねぇ。テメェ、警察の手先かも知れねぇしな。信用するもんか」
 Aはオドオドしながら、荷物を全部Yに差し出した。荷物になってしまう大きな絵や彫刻だけ、Yは拒否をした。
「身が重くなるからな。まぁ、「G」にはまだまだ高価な宝物がいっぱいあるから、またいつか忍び込んでやる。ヘッヘッヘ!」
 Yは盗むのと同じく手際よくAに言うことを聞かせ、山小屋を後にした。しかし、翌日の新聞で報じられた通り、Yはお縄になった。「G」がどうしていち早く盗難に気づいたかというと、倉庫内に捨てられた煙草が煙を出していて、検知器が反応したからだった。有名な怪盗の割にはドジをするものだな、というのが警察の間での笑いの種だった。

   □

 美術商「G」は盗品をことごとく取り戻したものの、一つだけ、戻らない名品があった。失われたのは、裏ルートで手に入れた巨匠・レオポルドの「月夜の女神」だった。そもそも盗品であるため、警察に被害届を出すわけにもいかなかった。
 ところで、Yを検挙した警察たちは、同じ夜、警察犬が噛みついた老画家が携えていた絵が「月夜の女神」だったことは、誰も気がついていない。そして、「G」の倉庫内に捨てられていた煙草が、老画家の胸ポケットに入っていた煙草と同じ銘柄であることも……
 その数日後、警察がかねてからマークしていた謎の盗賊が捕まったことが、新聞に載った。Aという、盗賊の世界では密かに名前を伸ばしていたルーキーだった。変装がうまく、頭が切れることでうまくやっていたようだが、宝石商「R」に忍び込んだ夜、ついに御用となった。やはり縛り首になった。
 ちなみに、その「R」の裏オークションでは、数日前にAによって巨匠・レオポルドの「月夜の女神」が売りに出されたというのが、大きな事件だった。「月夜の女神」といえば、数日前に縛り首になって死んだ怪盗Yによって盗まれたと、宝石商の業界では有名な事実だったから、「R」の鑑定士はなぜAが持ち込んだのかが疑問だった。
 しかし、Aが捕まった夜、「R」の倉庫から、「月夜の女神」が消えていた。警察の調べでは、どうやら盗賊は二人いたのでは、という推測がたっている。Aの逮捕を報じる新聞記事の隣りには、「旅の画家」と称する若い男が国境付近で迷子になり、警察に保護されたという珍事件が添えられており、人々の笑いを買った。

  おわり

はかなくうつろうエプロンの色

   ○

 トン、トン、トン… と、キャベツを包丁で切る。いつもと変わらない。
 ようやく桜が散って、絵美の好きな新緑になった。窓から見える桜の樹に射す光の色は変わり、落ちる影の角度も変わった。空の青さも変わった。風の匂いも変わった。なによりも、芝生にひらひらと舞い踊るモンシロチョウが、包丁を握る絵美の気持ちを明るくさせた。何気ない朝食づくりの時間が、心躍るものに変わるのだった。
 トーストと千切りのキャベツ、プチトマトと目玉焼き、牛乳。誰もいないダイニングでラジオを聴きながら食べた。DJのハイテンションな声は流すにまかせて、内容を少しも意識していない。ただ、何かの音が欲しい。それだけだ。シンクに食べ終わった食器を置いた。
「ごちそうさま…」
 相変わらずモンシロチョウは草場の緑の中に遊んでいた。絵美はモンシロチョウに「美味しかった?」とでも訊かれたように、「美味しかったよー」と声をかけた。エプロンを外してたたんだ。うす茶色の色あせたエプロンである。使い始めてから数年間の、地味だけど豊かな日々がエプロンの色を褪せさせていた。その褪せ具合が絵美は好きだった。それは、寺の燈篭や石段が苔むすのを見る楽しさに似ていた。
 エプロンをたたみ、カバンにしまうと身支度を整えて、部屋を出た。
 週に三日、料理研究家の助手をし、それ以外の日は花屋で働いていた。絵美の好きなもの、それは料理と花だった。近い将来、美味しい料理とコーヒーが出て、季節の花がたくさん咲く小さなカフェレストランを開きたいと想っている。あとは「優しい旦那さんがいれば最高」という密かな願いもある。
 部屋のチャイムが鳴った。時間通りだ。ドアを開けると、親友の美紀がいた。絵美を見るなりニンマリと笑って、白ワインのボトルを突き出した。
「はぁーいっ! 今夜はヤケ酒会ね!」
「そんなんじゃないって…」
 絵美、ちょっと苦笑した。

   ○

「ま、自由になったと思ってさ。世の中の半分は男なんだから、まだまだ出会いはあるわさ! 幸田絵美、二十五歳! まだまだ若い!」
「ヤケ酒会なのになんでそんなにハイテンションなのよ」
「親友を元気づけようとガンバッてるんじゃないですかぁ!」
 美紀はいつになく頬が紅い。一緒に悲しもうとしてくれているのだろうか…
「大丈夫よ。わたし、社会人よ。一人だって立派に生きてくんだから」
「それがダメ! 女はね、守ってくれるステキな旦那様がいてこそ美しく輝くのよ」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すわよ。独身のモテモテシェフさん!」
「でもさ、健介とはさ、専門学校時代からだったから……五年でしょ?」
「……」
「やっぱり、寂しい?」
「寂しくない」
 美紀は紅い頬をして、優しい目と鋭い笑みを絵美に向けた。
「ウソつき」
「ホントよ」
「あんたの欠点はね、強がりなところ。もっと自分に素直にならなきゃいけないんだよ。もう恋なんてしないなんてぇ〜、言わないよゼッタイィ〜♪」
「ねぇ、それ、男のセリフじゃなかったっけ?」
「え、そうだっけ? ヘヘ」
 絵美は苦笑した。美紀のような友達を失いたくないと思った。
 健介は先週、絵美と暮らした2LDKからいなくなった。桜が満開の時だった。翌日、テレビの上に置いてあった、健介とのツーショットを収めたフォトフレームを絵美は捨てた。

   ○

 おそろいのマグカップを捨てた。健介が使っていたスプーンとフォークを片そろい捨てた。しばらくしてから、色ちがいのおそろいだった自分のも捨てた。健介だけが使っていた灰皿も捨てた。2LDKから健介の匂いを消すように、色々捨てた。
 絵美はキッチンに立つ時、花の世話をする時、ようするにエプロンを着ける時、確かに幸せだった。キッチンと花のある場所は、誰にも侵されることのない空間だったから。だから、今もそこそこ幸せである。片隅を彩る季節の花には毎日「おはよう」と言った。キッチンでの一と仕事の後、洗って立てかけてあるまな板の、いくつもの包丁の痕を見るとなんとも言えず嬉しかった。タイルの目地のかすかな油汚れを見ると、胸の中でキッチンに「いつもご苦労さん」と言った。すすいでカゴに入れた食器群には「お疲れさん」と言った。ソースを弱火でかき混ぜながらボーッと瞑想するのは、この空間での至福の時だった。
「絵美さん、エプロンの色が変わったわね」
 絵美が手伝いをしている料理研究家が言った。
「はい。前のやつ、捨てちゃったんです」
「いい色の褪せ具合だったのにね。どうして?」
 捨てるのは当然だった。健介の持ち物や健介からの贈り物は全て消していったから。
 それで良いと思った。思っていて、どこか胸の中にスポンと穴が開いたような気がした。その空洞を吹き抜けるむなしい風が絵美の気持ちをどよんとさせた。

   ○

「俺ってなんか、お前の彼氏っていうより、お客さんって感じじゃん」
 健介は最後にそう言った。彼も「絵美の空間」にやってきた客人の一人に過ぎなかったのだろうか。2LDKに一人でいてちっとも寂しくないのはなぜだろうか。考えても答えは出なかった。現に寂しくはないのだから、そのうちに考えなくなった。季節と共にキッチンに並ぶ食材も変わるし、部屋を彩る花たちもその色と形を変えた。静かな時が流れていた。
 しかし、何かが欠けている、何かがない、と時おり感じた。大好きな空間で毎日大好きなことをしているはずなのに、何かが足りない、と。
 ふとした拍子に、身体の中で小さな炎が煌々と燃え上がるのを感じたが、それは忙しさに埋もれてなんとなく消えていった。
 休みの日、部屋で本を読んでいるとチャイムが鳴った。玄関へ行って応えると、
「工藤健介さんに、お届けものです!」
「えッ!?」
 驚いた。
 絵美のたった一人の空間に、思わぬ客が来てしまった。小ぢんまりとした可愛い絵美だけの世界の一角を、突如占拠したのは、象牙色の二人がけのソファだった。先週、健介と行った家具店で買い求めたものだった。新品のレザーソファは二人が腰を下ろせば身体がぴったりくっつくようになる。肘掛けは丸く、木製の脚はチョコンと突き出て可愛らしさを強調していた。人の肌のような優しい象牙色のソファは、やたら輝いて見えた。
 絵美はなんだか急に心が燃えてきた。涙が止めどなくあふれて来た。象牙色のソファを見れば見るほど、理由もわからず悲しくなった。絵美は、ただただ泣いた。

   ○

 さわやかな新緑の最中だ。
「絵美さん、またエプロンの色が変わったわね。明るくなった。どうしたの?」
 料理研究家が言った。絵美はエプロンの色をブラウンから鮮やかな黄色にしたのだった。ブラウンの前は、紺色だった。
「ええ。なんとなく、です」
 ほかに答えようがないからそう答えた。本当に「なんとなく」、絵美はエプロンの色を変えたくなった。
 トン、トン、トン…と、キャベツを切る。いつもと変わらない。でも、何かが変わったように思う。

  おわり

知られざる肖像画

 …つまらない記事になるだろう。
 朝の通勤ラッシュに苦しまなくてもすむ新宿からの下り電車の中で、杉村は窓外に目をやりながら胸中で密かにつぶやいた。
 洋画家の平川聡が三日前に死んだ。かねてから患っていた喉のために入院生活を続けていたが、読書中に動脈瘤が破裂、急死した。今日は葬式である。「首都日日新聞」の文化欄担当の杉村は、その取材に行くことになっていた。文化欄担当セクションの係長から、
「しょうがねぇ、杉村行ってきてくれ。原稿は一から作らなくちゃいけねぇから。たしか平川聡って一人娘がいたよな。単独インタビューにしとくか。資料はこっちで集めるからよ」
 阿呆臭い企画だと杉村は思った。首都日日新聞の文化欄担当では著名な文化人の中で、「そろそろ亡くなるであろう」人物についての資料があらかじめ作ってあって、入院の知らせでも入れば早々に記事構成をしてしまう。とうとう亡くなったとなったら記事を仕上げて、スピード第一、すぐに世へ発信するのであった。しかし平川画伯は享年八十五歳でありながら、文化欄では、要するに「死ぬ」準備を怠っていた。皮肉だが仕事の怠慢なのだった。だから、まずは突撃せよと、杉村に今日の葬式の模様取材の白羽の矢が立ったのだった。すぐに取材依頼をしたが、一人娘の平川綾子は「すぐには応じられない」と言った。まずは葬式に参列して面識を得て、仕切り直すことになる。
 杉村は都内の事件事故を追っている同僚が羨ましかった。もともと杉村は夜討ち朝駆けの事件記者に憧れて首都日日新聞に入ったのだった。小学生の夏休みの頃、再放送していた「特捜最前線」を毎回母親と一緒に見ていた。だから文化欄で以前、大滝秀治を取材した時は異常に興奮してしまったのを覚えている。しかし文化欄担当で楽しかった仕事はそれくらいで、あとはやれ誰が死んだ、あいつが賞を取った、これからのアートの傾向は云々……。
 で、今回は平川画伯の死去か…つまんない記事になるんだろうな…
 郊外の高級住宅街からほど近い丘の中に斎場はあった。杉村は葬式の開始予定の十五分前に着いた。さすが世界的な洋画家ということもあって多くの人が参列していた。ベンツやBMWロールスロイスまでもが駐車場に停められていた。
「美術商とか、大企業の社長だろうな。平川画伯って広告の仕事もしてたはずだし」
 受付場所に三十代の細身の美人がいた。挨拶をするとすぐに彼女が平川綾子であることがわかった。杉村は挨拶をして名刺を渡した。すると、なぁんだ、という顔をして頭を下げただけで、返事をしなかった。無愛想な女だな、と杉村は思った。
 葬式は退屈でならなかった。
 平川画伯は小田原に個人美術館を持っていた。クライアントである化粧品会社の出資による美術館だった。葬式の参列者には美術館の学芸員なども混じっているわけである。その他、クライアントや美術商の他に、画壇の関係者、友人知人などで、六十人くらいはいたであろう。
 杉村は退屈でならなかった。斎場の従業員が司会をして、喪主である綾子が話し、読経が行われた。
 その最中、杉村は「悲しい」という情緒を会場のどこを見回しても感じることが出来なかった。この会場に喪服を着て参列している輩といえば、クライアントは仕事上の付き合いの延長線上として、美術館の学芸員も同じ理由で、美術商は平川画伯の絵の価格がどれくらい上がるだろうという皮算用で頭の中がいっぱいだろうし、画壇の友人知人とても平川とどれほど深い付き合いがあったかわからない。なにせ平川画伯と言えば、係長いわく「仙人みたいに孤独が好きなヤツ」ということで、晩年は一度ニューヨークへ取材に行ったのみだった。あとは郊外の里山の麓にある緑地の中の家で妻と二人で住み、ひたすらアトリエにこもって絵を描き続けていたらしい。娘の綾子は近くに住んでいたとはいえ結婚して子どももおり、ほとんど親の家とはコンタクトをとっていなかった。平川の妻である佐代子は夫の急死のためにショックで入院していた。
 平川が画壇に友人が少ないのは、その性格の烈しさのせいだった。自分の世界を追求するあまりに友人と喧嘩し離反したり、クライアントの要求に堪えかねて仕事を切ってしまったことも多々あった。杉村は、今日参列している人々に「悲しさ」を感じ取ることができないのは、この人たちとて平川の烈しい性格に少なからず閉口したことのあるクチなんだな、と想像した。平川は世界的な日本人の洋画家、それでいて戦後の鮮烈なデビュー以来、半世紀以上も日本の画壇をリードしてきた「偉人」なのであるから、付き合う人が抱く平川との利害関係や友情をベースにした上での摩擦、軋轢の煙たさのほどは尋常でないのだろう、と杉村は思った。 葬式の後、杉村は綾子に挨拶をして首都日日新聞に載せる平川の追悼記事の趣旨を述べた。インタビューは一週間後ということに決まった。
 …つまらない記事になるだろう。
 行きつけの居酒屋で同僚と熱燗を傾けながら思った。特ダネや世間の耳目を集めているニュースを日夜追跡している同僚は肉食獣のように活き活きとしていた。オレはせいぜい羊か牛みたいに、牧草をかじってるだけだ、と杉村は思った。
 係長と打ち合わせをした。平川の追悼記事に載せる画業や略歴などの資料が揃ったのだ。
 平川は戦後すぐに、「昭和二十年三月十日」と「昭和二十年八月十五日」という連作の絵を発表して一躍画壇に躍り出た。東京大空襲で逃げ惑う人々を描いた「三月十日」と、玉音放送を聞いて泣き崩れる人々を描いた「八月十五日」が世間の度肝を抜いた。その後も戦争との因縁は絶ちがたく、作品を発表し続け、平川は「反戦画家」とまで呼ばれた。朝鮮戦争ベトナム戦争などの惨状をリアリズムで描き出し、そこに写されるのはいつの世も変わらない「人間の悲惨」。遺作となる最晩年の作品は「ニューヨークの乙女」。「9.11」が起きたすぐ後に渡米し、未だ瓦礫が取り払われない廃墟を前に立った少女の無邪気な笑顔。惨劇の場にどうして笑顔なのか、という議論が画壇や美術雑誌で巻き起こったが、平川は明白な答えを提示していない…。
「要するに、よくわからん画家なんだ。頑固で、絵一筋で。俺も一回会ったことはあるけど、口をへの字にしてよ、全然話さん。へへ、ウチの社長みてぇだよ。仕事のためには世界中どこへでも飛んで行くんで、家族は苦労したろうよ」
「娘の綾子とのエピソードは何があるんですか?」
「知らん」
「それじゃ、何にも喋ってくれなかったらどうするんですか!?」
「そこを聞き出すのが記者の役目だろうが!」
「他の取材対象者を探しましょうよ。もっと知ってる人、いますよ」
「ばか! そんな時間あるか。こういうのはスピードが大事なんだ。妻は入院しちゃってるんだからしょうがねぇだろ、娘しかいねぇんだよ! 例の通り、友人知人だってそんなに仲の深い人がいねぇんだから!」
 …つまらない記事になるだろうな。
 杉村が抱く念は一向に変わらなかった。何が面白くて仕事をしているのか、解らなかった。

  綾子とは平川の自宅で会った。平川の妻が入院している今、誰もいない家となっていた。
 春の光がレースのカーテンを通して射し込み、居間の絨毯はまぶしく照っていた。窓外では、風に揺れる里山の木々が、時に陽光を浴びて笑っているように見えた。
 杉村はテーブルを挟んでソファに腰掛け、綾子と向き合って取材した。
 綾子自身のこと、生前の父のこと、父との一番楽しい思い出、辛い思い出、貰ったプレゼント、印象に残った言葉……杉村に返ってくるのは、別に面白くもない月並みな親子の交流の様子だった。綾子は平川の三人目の妻との間に生まれた娘で、五十以上も年が離れているから大した思い出がないのも当然なのかも知れない。いったい、綾子は父親に愛されていたのだろうか、思えばなんて不幸な娘なんだろう…と、杉村は考えた。ちょうど、尻下がりの目と厚い唇とが父親に瓜二つの綾子の言葉は、杉村には無味乾燥だった。「まぁ、早いところ終わらせて、さっさと記事にしちまおう」というのが正直な胸の内だった。
「じゃあ、最後に写真を……」
「はい……」
 杉村は壁に架けてある「ニューヨークの乙女」を指差して、
「せっかくですから、画伯の遺作の前でお願いします」
「は、はぁ……」
 綾子は自分の背ほどもある大きな絵の前に立った。杉村はカメラを向けた。無表情の綾子がファインダーの中に映っていた。「つまらねぇな」と思いながらシャッターを切った瞬間、動きが止まった。咄嗟に顔を上げて綾子を見た。綾子は目に涙を浮かべていた。頬を伝う涙を手で押さえながら、顔を俯けていた。
「……」
「す、すみません……急になんか、こみあげてきちゃって」
 杉村は唖然としたままだった。「ニューヨークの乙女」を前にして、綾子は静かに言った。
「父は、私を一切可愛がらなくてね。というのも、自分が仕事に没頭するために娘をかまえる時間が取れないものだから。私が結婚する時に描いてくれた、私の肖像画があるんですけど、実は、この『ニューヨークの乙女』に塗り潰されてしまいまして。私が結婚する直前にニューヨークの事件が起きたものですから、肖像画を描きかけのまますぐにアメリカへ飛んで行っちゃったの。結婚式の日に私に手渡す予定だったけど、出来なかったんです。『ニューヨークの乙女』に早く取り掛かるために、手近にあった描きかけの肖像画を潰してしまった、って、母が言ってました。どうしてこの乙女が笑っているか。不思議でしょう? 私にもわかりません。でも、きっと、下にある私の絵が、笑顔だったからかなぁ、って私は思っています。この絵が遺作になることを父は恐らく知っていて、最後に描く人の顔は、微笑ませたかったんじゃないでしょうか。私には、そんな気がしてなりません」
 杉村はポカンとしていた。
「父が私の絵を描く時、モデルの私を前にしてキャンバスに向かっている顔は、とっても優しかったんです。私、父が亡くなってこの絵だけが残された時、これ以上泣けないくらい泣きました。父は仕事人間でしたけど、きっと私のことを愛してくれていたと思ってます」
 杉村は今、この親子の深い心の底を垣間見た気がした。同時に取材は一からやり直さなくてはならないと思った。
 「偉大な洋画家の娘のインタビュー」などというお茶漬けみたいな記事で、この親子のことを伝えられるわけがないと、瞬時に悟った。そんな杉村の惑いを他所に、綾子は涙を押さえながらしかし晴れやかな顔で言った。
「最後に見た父の顔は、神様のようでしたよ」
 帰りの電車の中で、窓外を見ながら杉村は胸中でつぶやいた。
 …つまらない記事になるなぁ。
 杉村の述懐は取材の前と後で変わらなかった。しかしその内実は単なる無気力でなく、悔恨の念だった。写真を撮った、「ニューヨークの乙女」を背にした綾子は無表情だったのだから。自分を取り巻く仕事のスピードと分量の中にあって、偉大な洋画家の遺作の下に知られざる肖像画が潜んでいること、見えない親子の愛が秘められていることは、とてもとても、描き尽くせそうにないから。

  おわり