アルミニウム(7)

 二人は小屋を出た。そして一言も交わさないまま順路を通って施設を出て、コインパーキングに停めてあったベンツに乗り込んだ。
 ――ふぅ。じゃあ、家まで頼む。
 Aは低い声でつぶやいた。
 ――ちょっと歩いたお陰で、少し酔いが覚めたよ。
 ――ホタル、綺麗でしたね。ああいうのも、たまにはいいかも知れませんね。
 Sはエンジンをかけながら言った。不思議なことに、先ほどまで重苦しかった気分がいくらか軽くなっている気がした。
 ――歌舞伎町のネオンとは別の味わいがあるなぁ。はははは。
 Sは明確に意識しなかったが、Aの声色が先刻よりも落ち着き、優しさを帯びているのを感じた。Aの本心が腹の底からゆっくりと押し出されてきたかのような響きが、はははは、の四音にはあった。Aは一呼吸すると、
 ――さっきは怒鳴ったりして悪かったね。このところ、商売がまったくうまくいかなくって……ムシャクシャしていたんだ。
 と、やたら神妙に語り出した。そういえばAは池袋で土地専門の不動産業を営んでいたのだと、Sは思い出した。
 ――ぜんぶ地震のせいだ。リーマン・ショック以来の大不況からようやっと回復しかけてきたんだが……三月十一日以降にまたガタ落ちになった。しかも、さっぱり先が見えない。ゴールデン街で安酒でも呷らないとやってられんよ……。
 地震のせいだ、というAの台詞がSの胸の深くへ響いた。そうだ、地震なのだ、地震さえなければ俺はこんなところで人のベンツなど運転していないのだし、仕事も家庭ももっと明るい方へ進んでいたはずなのだ……どうして地震など起きたのだろう、どうして俺の生活はずたずたに引き裂かれたのだろう……Sは心の中でそう唱えると、眉間に皺を寄せた。どのように考えても地震の起きた理由など探り当てられない苦しみと悶えが、眉間の皺となって現れ出たのだった。
 しかしまた、地震の理由などいくら追究しても意味はないことも分かっていた。Sはすぐに眉間の力を抜いた。先ほど待機室で洩らしてしまった胸の奥の慟哭を、危うくこの狭いベンツの中でも洩らすところだった。Sはふゥと息を吐いた。
 Aの家はコインパーキングから十分とかからない、板橋区和光市の境目付近の住宅地にあった。Sは秋葉という表札のかかった瀟洒な洋風の二階家の前にベンツを停めるとAを降ろし、門の脇の駐車スペースに車を納めた。AはSからキーを受け取ると、
 ――ありがとうよ。またな。
 と小さくつぶやいた。
 ――こちらこそ。今日は楽しいホタル見物までさせてもらって。ありがとうございました。
 ――ははは。昔は女房と娘と三人で行ったもんだが……男なんざ、いかに一家の長とはいえ、子ども作ってある程度まで育てればもう用無しさ。今じゃ、ただ金を入れるだけの働き蟻だよ。
 Sは苦笑するしかなかった。
 ――さっき渡したノンアルコールビール、帰りに飲んでくれよ。
 ――……はい。
 Aはにやりと笑うと門を開け、玄関の奥へ消えた。ホタルを見る前にもらったノンアルコールビールはまだ開けていなかった。
 十数メートル先にはすでにKの随伴車が停まっていて、こちらへライトを向けていた。Sは小雨が降る中を背を丸めて走り寄った。小雨はライトを浴びて輝いていたが、先ほどのホタルの仄かさはなく、細い光の線となって地面へ向けてまっすぐ落下していた。
 ――お疲れさん。どうだった、ホタルは?
 助手席のドアを開け、急いでシートに腰を下ろしたSに、Kはさっそく問うた。唇を歪めて愉しそうである。
 ――なかなか良かったよ。たまにはああして虫を見るのもいいものかもね。
 SはさっきAに言ったのと同じような返答をした。
 ――じゃあ行った甲斐があったんだな。よかったよかった。しかしこっちはあの疑り深い社長を騙すのが大変だったんだ。何だか、俺だけ損した気分だよ。
 Kが唇をとんがらせてつぶやくと、Sはハッとした。Sの意識に、かねてからの疑問がふたたび浮上した。
 ――どうして、俺がホタルを見に行くのを二つ返事で承知してくれたんだ?一件でも多く仕事する方が、あんたは儲かるじゃないか。
 Kは車を走らせ、ゆっくりとハンドルを切った。
 ――武田さん、待機室を出る間際に俺に何を言ったか、憶えてる?
 ――……ああ。憶えているよ。
 ――たまには、ホタルでも見て気を和ました方がよかったんじゃない?
 Kの真意はSの推した通りだったようだ。
 KはSの私生活についてそれ以上語らず、また追究しようともしなかったが、Sの方はKに何もかも見透かされた気分だった。でもそれはなんら腹立たしいことでもなかった。むしろKに対し、さすが脚本を書いていただけあって人の心を読み取る力があるなと感心した。

 都心へ還る道は、気持ちいいほどに空いていた。
 道すがら、Kは原発事故について力説した。聞くと、なんとKは過去に原発で働いていた時期があるとのことだった。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でSがKを見ると、Kは自身がフリーライターであることを告げ、今はユニオンに出入りしながら過酷な生活と労働を強いられる者たちの姿を見つめ、文筆活動を続けていることを明かした。
 ――毎夜、都会を彷徨っている人たちとツイッターで語り合っているんだ。誰にも言わないでくれよ。
 Sはひどく面食らった。しかし、フリーターを自称し、スマートフォンを慣れた手つきで操作していたKが、実は過去に映画を学び、町工場に取材して労働者のことを脚本にしていたという意外性が、今ここに解消された思いであった。Sは軽く微笑むと、窓を開け、冷ややかな夜風を浴びながらAにもらった、すでにぬるくなったノンアルコールビールを飲んだ。雨はすっかりあがっていた。
 Kが語るには、三月十一日を境に、放射能汚染はもはや誰も避けられなくなったとのことだった。ヨウ素セシウムストロンチウムなどの元素の名を列挙してKは放射能の危険性を説こうとした。しかしそんな話を聞いてもSはちんぷんかんぷんだった。飲み干したアルミ缶を握りつぶすと、
 ――アルミニウムに被曝する方がマシだよ。
 と火傷の腕をかざしてうそぶいた。Kは先ほどと同じく大口開けて笑った。Sも大いに笑った。こんなに笑ったのは何日ぶりだろうと思うほど笑った。仕事と生活は今も暗澹としたままで、明るい光が射し込む未来などとても想像できないことも分かっていたが、笑った。そして、家へ帰ったら、一人で寝ているRをそっと抱いてやろうと決めた。

 

―終―