似顔絵師(4)

 大型受注が一件あった。決めたのは先輩の金村だった。全国に大型ショッピングセンターを展開する得意先で、鍋料理の小さなレシピを商品近くに置き、いろいろな鍋料理とともに飲み物を提案するプランが採用された。商品の納入も拡大し、売れ行きの伸びも大いに期待されている。
 本社ではさっそく成功事例の報告と共有のための会議が開かれた。金村から企画の趣旨や具体策が一通り説明され、お開きになると、昭男とともに席を立った上野は昭男に顔を寄せて小声で言った。
「お前もかっ飛ばせよ」
 上野の激励を聞くと、昭男は俄然、闘志が湧いてきた。年末商戦を好成績で乗り切り、売上予算を達成すればうれしい決算賞与がついてくる。最近はリーマン・ショックの影響で全体的に需要が低迷していて美味しい思いができなかったが、景気が少しずつではあるが上向き始めているのも事実だった。金村の大型受注がそれを示していた。
 その夜、第一グループの十名は会議室で営業会議を開いた。昭男も清次も金村も参加し、業務の進捗や新規契約の候補、売り上げ増を見込める得意先を報告し合い、共有した。昭男はいつになく熱が入っていたが、得意先の引き継ぎの他に義務のない清次は隅で大人しくしていた。
「木村の引き継ぎはどうや?」
「あと一件です」
 上野の問いに金村が答える。指先でズレを正した眼鏡の奥には、真面目そうな細い目が光っていた。
「淀川は?」
「あと四件です。お得意さんも忙しいみたいで、時間がかかっています。すみません」
「早めに終わっとけよ。この時期は本来なら新提案をどんどんやってる時期やからな」
 清次と昭男はよわよわしく口をそろえて返事した。
 昭男はイライラしていた。金村に続いて自分も会心の受注をしたいところだが、「引き継ぎ」が足枷だった。清次との同行の日程を確認しながら、焦燥に駆られ、スケジュール帳をボールペンの先でゴツゴツ叩いた。
 昭男は深夜まで残業した。その日は珍しく上野も日報の処理で遅くまで残っていて、最後は二人で一緒に本社を施錠して帰ることになった。
「木村の得意先の引き継ぎの件、悪いな。ドカンと大きな受注をしたいとこやけど、しばらく我慢してくれ」
 音もなく動くエレベーターの中で、上野がぽつりと言った。
「とんでもないです。埼玉のお得意さんも、上手くやれば大きな仕事になりそうなところがありますし」
「そう言うてくれるとありがたいけどな。木村も、いきなり迷惑なことをしてくれたもんや」
 上野は溜息を吐く。昭男は上野の嘆息に意味深なものを感じた。清次をただ迷惑がるのではない、諦念のような愁いを含んだ目つきであった。
「……いつも目立たずにちょこんとしてるのに、けっこう隅に置けない奴ですよね。あいつは一体、何を考えて生きているんですかね」
 ふたたび上野は溜息を吐く。エレベーターが一階に着き、扉が開く。
「木村は、俺らとはちょっと常識の違う奴や。思い切り働いて会社に貢献して、給料上げていこうということを、そもそも考えとらん。普通に仕事して、普通の暮らしを営むことが幸せらしいんや。本人が言うとった」
 二人はサンシャインシティの脇を通って池袋駅へ向かっていた。平日の深夜である。昼間の喧騒はすっかり消え失せ、人通りもまばらで、生ごみの袋に食らいつく猫や風に舞うスポーツ新聞が、昭男の目にはどこかむなしかった。自動販売機の前でたむろする十代らしき男女の群れを横目に、昭男は上野の語る清次の話を聞いた。
 ――ずいぶん前のことやけど、木村とはな、一度二人で腹を割って話し合うたことがあるねん。あいつの成績が一向に良うならんもんやから、仕事とか自分の将来に対してどう思うてんのか、本音を引き出させたんや。そうしたらあいつ、
「今の営業の仕事は、生きていくために必要だけど、必要以上に熱心になれないし、それほど魅力も感じてない」
 と、堂々と言いよった。俺を前にしてようそんな言葉吐けるな、思うたわ。うちみたいな、中堅にも手が届かん小さい会社を伸ばしていく上で、あるまじき考えや。ぶん殴ったろうか、思うたけど、俺も人を評価する立場になってたもんやから、こらえて、あいつの言い分をよう聞いてみた。
 …あいつな、まだ学生だった頃に、母親を亡くしてんねん。親父さんは池袋で不動産屋を経営してるそうで、それまではベンツ乗り回してえらい稼いでたらしいけど、奥さん亡くしたことがよっぽど痛かったのか、以降はすっかり生き方が変わってしもうたそうや。酒も煙草も女遊びもきっぱりやめて、毎朝仏壇に手ぇ合わせるようになったばかりか、身体まで鍛え始めて、東京国際マラソンとか地方のトライアスロンの大会とかに出るようになったんやて。あいつも同じ心境だったかどうかは知らんけど、多感な時期に、母親亡くして父親も豹変してしもうたもんやから、若いなりにいろいろ考えたんやろ。……あいつ、俺に、
 「会社のために社員がいるんじゃなくて、社員のために会社があるんじゃないですか?」
 て、えらい真面目な顔して訴えてきよったわ。俺は身を粉にして、なんもかんも会社に捧げてきて、それが当たり前や思うてたけど、あいつの言うことも一応、間違うてない。そやから、なんも言い返さんかった。それがあいつの常識なんや。その常識の上では、不倫とはいえ、仕事相手と恋に落ちるのも是とされるわけやろ。…あほくさ。

 池袋駅に着いた。話は途中のような感じだったが、上野は「じゃあな」と手を振り、改札の奥へ消えて行った。
 昭男には、上野の後ろ姿が少しばかり悲しげに見えた。上野の背中を見て、その場に暫く立ち尽くしていた。
 「TKビバレッジ」は今でこそ三百人ほどの社員を抱え、大阪と名古屋にも支社を持つまでになっているが、ここまでの成長を遂げてきた要因として、上野の存在がとてつもなく大きいことを、昭男は知っていた。上野は生え抜きで大阪支社に入り、あっという間に支社のトップセールスになったスターである。大手小売店を次々に落とすその腕前を買われて二十代のうちに本社に呼ばれ、東京でも大手競合を相手に、鏤骨の努力によって市場を切り拓いた。四十歳を過ぎてからは育成に回り、第一線を退きながらも次代のトップセールスを輩出しつづけている。まさに営業一筋、会社一筋の男である。営業社員が皆、上野に憧れ、尊敬しているのは言うまでもない。昭男も同様であった。
 しかし、同様でありながらも、昭男は上野の正反対に近い考えを持つ清次にも、一寸の共感があることを否定できずにいた。昭男は、清次が「わらびストアーズ」の部長にああまで気に入られていた理由がわかった気がした。清次には、営業としてのある種の「邪念」がほとんどない。売り上げにつながりそうなところへ集中して訪問したり、自分を必死に売り込んだりすることに、はなから冷めている。そんなことよりも、自分と気が合い、尽くしたいと思える得意先に、どこよりも尽くすのだろう。それも、必要なだけ。

(つづく)