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似顔絵師(1)

 この上ないくらい爽やかな秋晴れだけど、昭男は、どうも今日は気乗りがしない。
「煙草、吸うよ?」
 一本取り出し、運転席の清次に見せて聞く。
「構わないよ」
 清次は答えると、助手席側のウィンドウを少し開けた。冷たい風が隙間から流れ込んできて、昭男の髪を乱した。昭男が吹いた煙はたちまち窓からの風に飲み込まれ、かき消されていく。
 埼玉県の南部で多数のスーパーマーケットを展開している「わらびストアーズ」の本社は、蕨市の外れにある。営業担当を木村清次から淀川昭男に引き継ぐ目的で、二人は本社の商品担当の部長を訪ねることになっていた。
 昭男は力の抜けた目で窓外に目をやった。荒川の土手には、フリスビーを投げて飼い犬を走らせている飼い主らしき老人や、サイクリングをする者らが、晩秋の空の下で楽しそうである。昭男はため息を一つ吐く。
「『わらびストアーズ』ってさ、埼玉の郊外だけに手を広げて経営しているんだっけ?」
「そうだよ。地域密着型」
「一族経営?」
「まあね」
「面倒臭そうだな。ビジネスとは違う感覚で物事を判断しそうで。億劫だよ」
「いや、それは大丈夫。専務も商品担当の部長も社長の親戚だけど、みんな話のわかる人ばかりだよ」
「あっそう……」
 昭男はそれ以上聞くつもりはなく、また窓外へ目をやった。

 昭男と清次は、池袋に本拠を置く清涼飲料メーカー「TKビバレッジ」の営業部第一グループに所属している。約三年前に同期として入った二人は、長いこと同じ現場で戦った。昭男は攻めのタイプの営業で成績はよく、中堅のトップセールスの先輩にも売り上げ額で幾度も肉薄したことがあった。一方の清次はというと、これが押しの弱い男で、かといって引きもよろしくなく、成績はつねに下から数える方が早かった。
 営業マンの資質など配属後半年もすれば判ってしまうものである。第一グループの担当エリアは東京都全域と埼玉の南部、神奈川は川崎市の北部や町田市にまで及んでいて、昭男はもっとも競争の激しい都心の大手広域ユーザーを多数任され、清次は郊外ののどかな地域密着型スーパーのいくつかを任されることとなった。そうなれば、昭男は訪問と提案を重ねて成績を伸ばす。逆に清次は浮き沈みのゆるやかなベッドタウンをとぼとぼ回る日々を過ごす。二人の成績の差はみるみるうちに歴然たるものになっていった。二人の営業マンとしての約三年間をごく大雑把にまとめるなら、昭男は営業の快楽を貪ったと言えて、清次は地味で退屈な御用聞きをし続けたと言えるだろう。
 昭男はバックミラーに映る、次第に小さくなる都心のビル群を、渋面を作って見つめる。清次がいきなり会社を退くことにならなければ、郊外の小規模なスーパーの担当になど、なることはなかったのだ……。
 昭男と清次は同期社員として入社して以来、しばらくは週末の同期飲み会などを頻繁に催し、やれ部長の息が臭いだの、先輩の女子社員のおっぱいがデカいだのと一緒に騒いだものだった。しかし清次は昭男の下品な振りに愛想よく応じるものの、それ以上の反応を示すことはなかった。
「淀川ぁ。あんたが下らない話ばっかりするから、清次くんつまらなそうじゃん、やめてあげなよ!」
 と、もう一人の同期で営業事務の川村あゆみがよく制止したものだった。
 昭男の方も、スポーツの話題にしろ女の話題にしろ、何をぶつけても食いつきに乏しい清次を、胸の内で物足りなく感じていた。次第に二人の会話は冷め、清次はやがて飲み会そのものに参加しなくなった。二人は第一グループ同士でデスクは近いが、仕事中も話をほとんどしなくなり、双方とも相手への関心が失せていった。そしてそろそろ年末商戦に差し掛かろうという矢先に、清次の退社が決まった。昭男は清次が担当していた物件のいくつかを突如引き継ぐこととなり、訪問に時間がかかるわ、売り上げは低いわ、予算は余計にのしかかるわ……。気持ちが明るくなるはずがなかった。

 「わらびストアーズ」の本社は住宅街の一角にある支店の階上にあった。昭男はだだっ広い駐車場に立ち、周囲を高層ビルに遮られることのない社屋を見上げ、「とんでもない田舎へ来たもんだ」と胸中でつぶやいた。
 部長に面会し、清次はさっそく営業担当を昭男に引き継ぐことを告げた。部長は急にくちびるをとんがらせ、
「えッ、木村さん変わっちゃうんだ!」
「はい。私も残念ですが、実は…退社することになりまして。今後は弊社の淀川がしっかりと務めていきます」
「よろしくお願いします」
 昭男は目いっぱいの営業スマイルを作って会釈した。部長はニタリとして清次に言う。
「クビ?」
「はははは。まあ、そんなところです」
 と応じる。すかさず昭男は清次の胸を叩いてツッコむ。
「コラコラ。根も葉もないことを言わないように!」
 三人してカラカラ笑ったが、部長は急に表情を硬くした。
「本当に辞めちゃうの、木村さん。どうして?」
「まぁ、その。一身上の都合でして……」
「辞めて、次に何をするのさ?」
「いま考えているところです」
「じゃあウチに来る?」
「ははは。ご冗談を……」
 清次は終始ペコペコしていた。部長は一応納得しれくれたものの、別れ際まで硬い顔を崩さなかった。

 無事に引き継ぎを済ませたと思い本社に戻ってみると、事態は急転していた。部長から「TKビバレッジ」に直接電話があり、「TKさんとの取り引きを停止する」と言われたらしい。二人は驚いた。清次が慌てて部長に電話すると、「木村さんは熱心に通ってくれたけど、新しい人がどれだけ情熱を傾けてくれるか、わからないしねぇ」との言いようである。清次はしつこく食い下がったが、部長の意向が変わる様子はなかった。清次は諦めて受話器を置いた。
 二人はすぐに「わらびストアーズ」に出直そうとしたが、第一グループリーダーの上野が制して、二人を会議室へ連れて行った。
「お客さんによっては、営業マンが気に入られてしもうて、それだけで取り引きが続くことがようある。でも木村、お前、請求をごまかしたりはしてへんやろな?」
「そんなことは絶対にしてません!」
 上野は冷静に清次の話を聞くと、営業事務からもデータを取り寄せ、ことの次第を総合していった。
 話はこうである。永い間、「わらびストアーズ」での「TKビバレッジ」の商品は売れ行きが悪かった。理由は商品力の弱さと清次の企画力の不足である。競合はマーケットを分析し、売り場も研究して次々に面白い販促企画を提案してきたが、清次にはそこまで頭が回らなかった。「わらびストアーズ」の商品会議では「TKビバレッジ」との取り引きを止めようという話が幾度も起こっていたが、部長が「TKさんは担当者が熱心に通ってきてくれてるから」と譲らなかった。役員たちも、部長のこだわりを容易に退けることはできなかった。ようするに、部長が経営者の親戚だからこそ「TKビバレッジ」は取り引きを絶たれずに済んでいたのだった。
「どうやら、ほんまに木村が気に入れられてたんやな」
 上野は腕を組み、ぼそりとつぶやいた。清次もどうしようもなく、押し黙っていた。
 もっと煮え切らないのは昭男である。自分なら、競合より優れた企画を提案し、シェアを取っていく自信があった。だけれどこの状況では口の出しようがなく、客が離れ、さらに予算がかさむのを、黙って受け入れるしかなかった。

(つづく)