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名前のない手記(2)

 ここで私自身のことを、必要なだけ記しておくことにする。私はすでに五十歳代に差しかかろうという中年の男である。三十歳代の終わりごろ、それまで数年間つづけてきた結婚生活を失った。それからというもの、私はサラリーマン生活がさっぱり厭になった。上司や先輩に気を遣い、客に愛想を振りまき、定時に会社へ出て定時に会社を出る、そして月に一度給料を得て、生活を組み立てる。そのような社会人としての当たり前の暮らしというものが、「結婚」の二文字が無くなった時から、なんだか阿呆らしいものにしか感じなくなった。かと言って、振り返ってみると、かつての妻だった女性との愛が、私が社会生活を営む根拠の全てだったとも思えない。将来に望む夢や目標もなく、生活に一本通しておきたい筋だとか志だとかいうものも特になく、ただその日その日を適度に、激しい喜びも深い苦しみもないまま漫然と過ごしていた私にとって、結婚もただの建前に過ぎなかったのだろう。だから私という人間の生活のどこかに楔のように刺さっていた「結婚」の二文字がポロリと落ちた時、私の社会人としての人生はごく自然に崩れ去ったのだ。会社や同僚や世の中への恨みもない。去った女性への悔いもない。ただ一切は風のように私の眼前を過ぎていった。私自身も風に舞う枯葉のように宙をただよい、やがて、東京の淀んだ淵のような山谷という一角へ降り立ったというわけだ。この薄汚い街こそ、私にもっともふさわしい住処であると思える。先ほど「サラリーマン生活がさっぱり厭になった」と書いたが、嫌悪したというよりは忌避したという方が近い。学生のころはさほどでもなかったものの、社会へ出てから、私は軽いうつ状態が続いていたと思う。目標に胸を燃やすこともなく、会社や上司の理不尽さに怒りを爆発させることもなかった。なるべく波風の立たぬように身辺を整理し、小さく小さく生きていたのである。それでも尚私は社会人として当然果たさなくてはならないもろもろの責任に憔悴していた。辛かった。なぜ辛かったのかは解らない。きっと、精神が薄弱なだけなのである。そういう私にとって、この山谷という街は住み心地の良いものだった。ここでは自主性や責任や誇りや志の一切が不要なのだから。
 誰かが私のことを卑怯だとか怠惰だとか臆病だとか言おうが、私は構わない。否定する積りもなく、実際にその通りだろうと思う。もとより筆を執った理由は私のことを誰かに伝えるためではなく、藤田君のことを書き留めておきたいからである。

名前のない手記(1)

   〇

 私は今、東京は台東区日本堤にある「金本旅館」という簡易宿泊所の小さな寝床で筆を執っている。周りは静かである。相部屋の者たちは日雇いの仕事に出ている。明け方の薄明が窓から射し込む中、何者にも邪魔されることなく私は文をしたためている。
 ここは山谷のドヤ街の一隅である。ここで半月ほど前、一つの事件が起きた。私の胸の内は、その事件のために深く陥没しているようだ。いつもなら今ごろは東京近郊のマンションの建設現場辺りでコンクリート打ちかセメント袋運びをしているはずだが、胸に空いたこの大きな暗い穴が、働く気を起こさせない。ただ、藤田君と笹本の事件の顛末を書かなくてはならぬと思う一心で、ペンを握り、紙に向かっている。きっと、私は「書く」という営為でこの胸の穴を埋めようとしているのだ。

 墨田区の押上に東京スカイツリーが着工したのは、昨年の夏ごろだったか。あれから数ヶ月過ぎて、ニューヨーク証券取引市場のダウ平均株価が暴落。金融危機はそれから世界を覆った。もっとも、私の周囲での変化といえば日雇いの仕事の数が減ったことくらいなので、世界規模の不況といっても実感は乏しい。しかしその乏しい実感の一つが、藤田君の山谷への来訪と私との邂逅だった。藤田君が山谷へ来なければ、私は世界同時不況のことなど意に介することなく暮らしていたに違いない。
 藤田孝輔君は三十三歳の、未来のある青年だ。だが、いつの間にか密林に迷い込んだように、未来の光を見ることができなくなってしまった。大手の家電量販店で派遣販売員として働いていたが、世界不況の波が日本にも及び、職を失った。住む場所も無くして東京をさまよった末に、山谷へ漂着したという。私はドヤで藤田君と相部屋になり、どちらからともなく言葉をかけ、日を経るにしたがい会話の数も増えて、その事実を知ることとなった。
「ゴミになった気分ですよ」
 藤田君はいつか、そう自嘲しながらケケケと笑った。目は生気を失い、顔や、体全体までもなんだか空気の抜けた風船のように萎んでいた。巷ではファストフード店や「ネットカフェ」で寝泊りする若者が増えているようだった。藤田君もそのような境遇の若者の一人なのだろう。それでも彼は派遣社員のころ、同僚だった年下の女性と結婚の約束を交わしていたらしい。ただしそれは藤田君が正社員になった暁のことであったらしく、山谷を訪れた時点でその望みがついえていたことは言うまでもない。そして、失われた「結婚」の二文字が、私に彼に対するシンパシーを抱かせるきっかけとなった。

アルミニウム(7)

 二人は小屋を出た。そして一言も交わさないまま順路を通って施設を出て、コインパーキングに停めてあったベンツに乗り込んだ。
 ――ふぅ。じゃあ、家まで頼む。
 Aは低い声でつぶやいた。
 ――ちょっと歩いたお陰で、少し酔いが覚めたよ。
 ――ホタル、綺麗でしたね。ああいうのも、たまにはいいかも知れませんね。
 Sはエンジンをかけながら言った。不思議なことに、先ほどまで重苦しかった気分がいくらか軽くなっている気がした。
 ――歌舞伎町のネオンとは別の味わいがあるなぁ。はははは。
 Sは明確に意識しなかったが、Aの声色が先刻よりも落ち着き、優しさを帯びているのを感じた。Aの本心が腹の底からゆっくりと押し出されてきたかのような響きが、はははは、の四音にはあった。Aは一呼吸すると、
 ――さっきは怒鳴ったりして悪かったね。このところ、商売がまったくうまくいかなくって……ムシャクシャしていたんだ。
 と、やたら神妙に語り出した。そういえばAは池袋で土地専門の不動産業を営んでいたのだと、Sは思い出した。
 ――ぜんぶ地震のせいだ。リーマン・ショック以来の大不況からようやっと回復しかけてきたんだが……三月十一日以降にまたガタ落ちになった。しかも、さっぱり先が見えない。ゴールデン街で安酒でも呷らないとやってられんよ……。
 地震のせいだ、というAの台詞がSの胸の深くへ響いた。そうだ、地震なのだ、地震さえなければ俺はこんなところで人のベンツなど運転していないのだし、仕事も家庭ももっと明るい方へ進んでいたはずなのだ……どうして地震など起きたのだろう、どうして俺の生活はずたずたに引き裂かれたのだろう……Sは心の中でそう唱えると、眉間に皺を寄せた。どのように考えても地震の起きた理由など探り当てられない苦しみと悶えが、眉間の皺となって現れ出たのだった。
 しかしまた、地震の理由などいくら追究しても意味はないことも分かっていた。Sはすぐに眉間の力を抜いた。先ほど待機室で洩らしてしまった胸の奥の慟哭を、危うくこの狭いベンツの中でも洩らすところだった。Sはふゥと息を吐いた。
 Aの家はコインパーキングから十分とかからない、板橋区和光市の境目付近の住宅地にあった。Sは秋葉という表札のかかった瀟洒な洋風の二階家の前にベンツを停めるとAを降ろし、門の脇の駐車スペースに車を納めた。AはSからキーを受け取ると、
 ――ありがとうよ。またな。
 と小さくつぶやいた。
 ――こちらこそ。今日は楽しいホタル見物までさせてもらって。ありがとうございました。
 ――ははは。昔は女房と娘と三人で行ったもんだが……男なんざ、いかに一家の長とはいえ、子ども作ってある程度まで育てればもう用無しさ。今じゃ、ただ金を入れるだけの働き蟻だよ。
 Sは苦笑するしかなかった。
 ――さっき渡したノンアルコールビール、帰りに飲んでくれよ。
 ――……はい。
 Aはにやりと笑うと門を開け、玄関の奥へ消えた。ホタルを見る前にもらったノンアルコールビールはまだ開けていなかった。
 十数メートル先にはすでにKの随伴車が停まっていて、こちらへライトを向けていた。Sは小雨が降る中を背を丸めて走り寄った。小雨はライトを浴びて輝いていたが、先ほどのホタルの仄かさはなく、細い光の線となって地面へ向けてまっすぐ落下していた。
 ――お疲れさん。どうだった、ホタルは?
 助手席のドアを開け、急いでシートに腰を下ろしたSに、Kはさっそく問うた。唇を歪めて愉しそうである。
 ――なかなか良かったよ。たまにはああして虫を見るのもいいものかもね。
 SはさっきAに言ったのと同じような返答をした。
 ――じゃあ行った甲斐があったんだな。よかったよかった。しかしこっちはあの疑り深い社長を騙すのが大変だったんだ。何だか、俺だけ損した気分だよ。
 Kが唇をとんがらせてつぶやくと、Sはハッとした。Sの意識に、かねてからの疑問がふたたび浮上した。
 ――どうして、俺がホタルを見に行くのを二つ返事で承知してくれたんだ?一件でも多く仕事する方が、あんたは儲かるじゃないか。
 Kは車を走らせ、ゆっくりとハンドルを切った。
 ――武田さん、待機室を出る間際に俺に何を言ったか、憶えてる?
 ――……ああ。憶えているよ。
 ――たまには、ホタルでも見て気を和ました方がよかったんじゃない?
 Kの真意はSの推した通りだったようだ。
 KはSの私生活についてそれ以上語らず、また追究しようともしなかったが、Sの方はKに何もかも見透かされた気分だった。でもそれはなんら腹立たしいことでもなかった。むしろKに対し、さすが脚本を書いていただけあって人の心を読み取る力があるなと感心した。

 都心へ還る道は、気持ちいいほどに空いていた。
 道すがら、Kは原発事故について力説した。聞くと、なんとKは過去に原発で働いていた時期があるとのことだった。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でSがKを見ると、Kは自身がフリーライターであることを告げ、今はユニオンに出入りしながら過酷な生活と労働を強いられる者たちの姿を見つめ、文筆活動を続けていることを明かした。
 ――毎夜、都会を彷徨っている人たちとツイッターで語り合っているんだ。誰にも言わないでくれよ。
 Sはひどく面食らった。しかし、フリーターを自称し、スマートフォンを慣れた手つきで操作していたKが、実は過去に映画を学び、町工場に取材して労働者のことを脚本にしていたという意外性が、今ここに解消された思いであった。Sは軽く微笑むと、窓を開け、冷ややかな夜風を浴びながらAにもらった、すでにぬるくなったノンアルコールビールを飲んだ。雨はすっかりあがっていた。
 Kが語るには、三月十一日を境に、放射能汚染はもはや誰も避けられなくなったとのことだった。ヨウ素セシウムストロンチウムなどの元素の名を列挙してKは放射能の危険性を説こうとした。しかしそんな話を聞いてもSはちんぷんかんぷんだった。飲み干したアルミ缶を握りつぶすと、
 ――アルミニウムに被曝する方がマシだよ。
 と火傷の腕をかざしてうそぶいた。Kは先ほどと同じく大口開けて笑った。Sも大いに笑った。こんなに笑ったのは何日ぶりだろうと思うほど笑った。仕事と生活は今も暗澹としたままで、明るい光が射し込む未来などとても想像できないことも分かっていたが、笑った。そして、家へ帰ったら、一人で寝ているRをそっと抱いてやろうと決めた。

 

―終―

アルミニウム(6)

 Kは待機室でこぼした俺の言葉を反芻し、気持ちをいくらかでも察して、ホタルを見に行くなどという呑気な接待を承知したのだろうか。つまりは俺に対するいくらかの憐憫がKの胸に萌したのだろうか。Sは携帯電話をポケットにしまいながらフとそんな仮説を立てたが、ベンツのドアを開け、
 ――行きましょう。
 と、助手席のAに言った時には、Kの心中を推し量るそんな思考も、ろうそくの火がささやかな風に消えるように頭から失せた。雨脚は先ほどより弱くなっていた。
 施設の入り口で整理券を受け取り、十数分待つ間、Aは付近のコンビニで缶ビールを買い、あっという間に飲み干した。
 ――あんたも一杯したら?
 とSにはノンアルコールビールを与えてくれた。
 二人は施設に入った。ホタルの放つ光がきわめて微小であることから、飼育施設の中はほとんど暗闇だった。とはいえこの無料開放はけっこう人気の催しらしく、見物客の群れが暗い中にも長蛇の列を成していた。
 ――何年か前に家族で来た時は、こんなに混雑していなかったと思うんだけどなぁ。
 そうつぶやくAに続いてSは施設の中庭にある飼育小屋に入った。そこは典型的なハウス栽培の小屋だった。ガラス張りの屋根が山型になり、周囲もことごとくガラス張りで、奥行きは十五メートルほどの小ぶりの部屋だった。そのまん中を小さな川が縦に貫き、その脇の板張りの通路をゆっくり歩くというのが順路だった。
 草木が小川の周囲に鬱蒼と茂る中を、数多のささやかな光のつぶてが舞っていた。Sはとんと見慣れない光景を見ながら、Aに続いて通路を進んだ。宙をたゆたう光の球に手をかざしてみると、光は一瞬、闇に消え入って、離れたところでふたたび弱弱しく灯り、どこまでもどこまでも飛んで行った。見上げてみれば、それがいくつも無軌道に漂い、どれもが柔らかな尾を引いていた。Sは、儚い光の群れの織り成すこの世ならぬ景色にしばし見惚れた。前を歩くAは一度もSを振り返らず、また一言も口にせず、ただとぼとぼと大きな背を左右に揺らして歩いていた。さっきまであんなに無遠慮に饒舌だったのがどうしてこんなに黙りこくっているのか、とSが思うほどだった。

(つづく)

アルミニウム(5)

 SとRに念願の子が授かったのは二月の寒い日のことだった。それまで長年二人きりで暮らしてきただけに、こうのとりの来訪は二人を狂喜させた。しかし子は翌月に流れてしまった。美容師の仕事が肉体的にも精神的にもRにとって想像以上の負荷になっていたというのが医師の分析だった。Rは悲しみに暮れた。Sもひどく落胆した。二人とも日々の激しい仕事のために心身に疲れを溜めていたばかりか、そろって休める日は一日もなく、共働きとはいえ贅沢ができるわけでもなかったから、生活はひたすら単調に続き、退屈さが募れば会話にも弾みがなくなって、二人の間には次第に影が差してきていた。清貧の思想など行う余裕は持ち合わせず、むしろ二人とも貧すれば鈍するを地で行っていたので、二人にとって子が宿ったのはまぎれもなく新しい生活を告げる黎明だったのに、それがあえなく流れ去ってしまったのだから、二人の間に差していた影は薄れるどころか、いっそう深く濃くなっていった。小さなことから口論になることもしばしばだった。
 そこへ三月十一日の地震が追い打ちをかけた。
 副業を始めたSは、どうして俺がこんな苦痛を背負わなくてはならないのか、いったい俺が何をしたのか……というやり場のない叫びを胸の内で繰り返した。怨もうにも怨む相手はどこにも無く、ただ目の前の義務に突き動かされて、夜の道を走るしかなかった。Rとは共にいる時間がまったくといっていいほど無くなり、交わす言葉も少なくなったのは言うまでもない。一時期は携帯電話でメールを送り合っていたが、それもお互い仕事が終わったことを報告する程度の味気ないもので、特に運転代行の仕事を終えた後は、メールを送ってもRはとうに寝ていて何の返信もなく、Sにはことさら空しく感じられた。
 Rの頬を平手で打ってしまったのは、そんな日々を送る中のある晩だった。その日、Rは休暇で自宅にいて、Sはいつものように工場から帰ると夕食を急いで食べ、ふたたび運転代行に出かけるところだった。はじまりはテレビ番組を巡ってのくだらない口論だったが、それが夫婦のどちらに生活の主導権があるかという議論に発展し、稼ぎの大小の話にまでなった。そんなたぐいの言い争いにまったく価値がないことは、少し冷静であればお互いに分かることだったが、一度口を吐いて出た相手への鬱憤は容易に止められなくなっていた。Rの発した言葉に身体がとっさに反応してしまったことを、Sは覚えている。しかし、果たしてそれがどんな言葉だったのかは一向に思い出せない。ただ、Rを打った瞬間に、深い後悔と自責の念に胸をえぐられたものの、目の前で頬を押さえ、俯いて泣くRにどんな言葉もかけられなかった。喉がカラカラに乾いていた。急いで着替えるとすぐに家を出た。残っているのはそんな断片的な記憶だけだった。
 その日からRとの交わりは絶えた。言葉も交わさず、メールも一切送り合わなくなった。同じ部屋にいても、二人はまるで赤の他人のように過ごした。Rとの間に生じたこの決定的な亀裂のために、Sの精神はますます荒んでいった。Rに許しを請うための言葉も見つからず、もしその言葉が見つかったにしても口に出す勇気はなく、勇気があったとしてもちっぽけな自尊心が邪魔をしたはずだった。しかし罪を犯したという自覚は日増しに大きくなっていって、ますますSを責め苛んだ。そして仕事は相変わらず忙しく、おまけにアルミ溶湯を浴びて気味の悪い火傷までこしらえてしまった。しかし皮肉なことに、その気味の悪さは、まさしくSの精神状態を表していた。もしいまここに、Sの心の根っこにわだかまっている言霊を定着させるならば、もう死にたい、という一語に尽きるであろう。この苦しい日々から我が身を消し去り、その代わりに、生まれずしてあの世へ行ってしまった小さな命を取り戻すことができれば、それはどれほどの僥倖であろうかとSは思っていた。この数週間というもの、精神が平安になることなどなく、何をどうすれば事態が好転するのかも皆目分からなかった。まるで出口のない密林にでも迷い込んだような絶望と失意のさなかに、Sはいた。
 Kの脚本の主人公の死が、Sのそんな心情を図らずも呼び起こすことになったのである。
 ――俺もそんな風に、かっこよく死んでしまいたいねぇ。
 ――え?何言ってるの、武田さん?
 ――ついこのあいだ、かみさんを殴っちゃったんだ……
 Kは手を止めてSを見た。ろくに整えていない乱れた髪が額から目へかけてばらりと垂れていて、輝きのない、細い一重の眼が虚ろに宙を眺めていた。
 ――おぉい、依頼が入ったぞ。いつものAさんだ。ゴールデン街へ行ってくれ!
 Wの太い声が会話をさえぎった。二人は話を止め、立ち上がるとすぐに事務所を後にした。エレベーターに乗り込むと、
 ――なぁ武田さん。さっき、いきなり何を言い出したんだ?まるで意味が分からなかったけど。
 とKが問うた。しかし当のSも、なぜあんなことを口にしたのか分からなかった。

(つづく)

アルミニウム(4)

 Kは隣でスポーツ新聞をめくるSの腕を見て、ぼそりとつぶやいた。
 ――武田さんの腕。ヒバクしたみたいだね。
 Kはところどころ破れて中のスポンジが見えている黒いフェイクレザーのソファに偉そうに寝転がって、スマートフォンをいじくっていた。
 ――縁起でもないことを言わないでくれよ。
 Sは記事を読みながら苦笑した。腕の火傷痕をヒバクと表現されたのはさすがに初めてだったが、なんだか言い得て妙のようにも思えて口元がほころんだ。Kが言い表そうとしたのは恐らく被爆だろうけれど、このごろ世間を飛び交っている被曝をも意識していたのは間違いなかった。KのそんなセンスにSは感心した。
 待機室は雑居ビル五階の事務所の片隅の、書類棚や山と積まれた段ボールに囲まれた窓際の狭苦しい場所だった。社長のWがキーボードを打つ音や冷蔵庫のうなり声が、部屋を仕切るパーテーションの向こうで鳴っていた。天井では蛍光灯がうるさい音を立て、雨の勢いよく当たる窓からは感度の悪いラジオのような雑音が聞こえた。十坪ほどの事務所にはSとKと、さっきからパソコンに向かっているWの他には誰もおらず、またSの察するところ、KもWも身の周りにはほとんど頓着することなく仮想空間に遊んでいるようだった。横からかすかに覗いたKのスマートフォンの画面にはツイッターのページが見え、Wはさっきからずっと、キーを叩いては椅子にふんぞり返ってディスプレイを眺め、時おりけたたましい笑い声をあげた。おおかたお笑い番組の動画のアーカイブでもチェックしているのだろうと、Sは推した。
 ――でもさぁ、ストロンチウムとかセシウムとかが東京にも飛んで来ているんだから、縁遠い話じゃないよ。ほんと、怖いよねぇ。
 とても本心から怖がっているとは思えない口調だった。
 ――この火傷はアルミニウムだから安心だよ。
 ――はははははははは。上手いこと言うねぇ、武田さん!
 Kは馬が大口を開けて笑っているような、阿呆みたいな笑顔を見せた。Sは思わず苦笑した。
 ――そうか、アルミで火傷をしたのか。武田さん、もしかして鋳物でも作っているの?
 Kが即座に鋳物という言葉を発したことにSは驚いた。スポーツ新聞を持つ手を下ろし、Kに向いて工場の仕事について一通り説明すると、Kはツイートしながらもふんふんと頷いて、妙に納得しているようだった。
 ――なんだか、よく知っている風じゃないか。
 ――以前、東京の下町の町工場のことを調べたことがあるんだよ。
 Kは大学では映画を学んでいたらしく、脚本の題材を求めて町工場の労働者のことを調べていた時期があったとのことだった。その脚本は一応は第一稿として成り立ったが、ゼミ生と講師には不評で、映像化されることなく今もKの部屋の押し入れの段ボールの中に眠っているという。SはKの話に聞き入っていたが、Kの方は話しながらネット上のつぶやきも休まず繰り返しているようだった。
 ――その脚本って、どんな話なの?
 Kは一度、タッチパネルの上を滑る手を止め、微かに笑った。
 ――しょうもない話だよ……
 とつぶやくと、ふたたびタッチパネルをいじくり始め、同時に過去の自作のあらましを語り出した。
 脚本の主人公は、下町の小さな自動車整備工場で働く若い整備工で、貧乏ながらも妻と手を取り合って健気に生きていた。待ち望んだ子がようやく妻の腹に宿るが、ある日、整備中の車を支える器具が外れて、下敷きになって命を落とす。残された妻は泣き崩れ、一度は後を追おうと思うが、子を夫の代わりと思い、一緒に強く生きていこうと決意する。そんな話だ。
 ――ははははは。つまらないだろう?
 ――まぁ、ありきたりではあるけれどね。
 とSは短く返したが、フリーター暮らしに埋ずもれた、いつまでもモラトリアムの中にいる腑抜けた若者という印象しかなかったKが、過去にこんなおセンチなシナリオを書いていたとは意外だった。しかしそれよりも、作業中の事故だとか、強く生きていこうだとかいう話は、Sには他人事とは思えなかった。特に、子が授かるという生の観念と、命を落とすという死の観念は、このごろSの心の奥深くにわだかまっている耐えがたい二律背反だったのである。

(つづく)

アルミニウム(3)

 Aの家が近づいてきた。面倒臭い解説もやっと終わりだとSは思ったが、
 ――…あのさぁ、ちょっと寄ってもらいたいところがあるんだけど。
 とAはいきなり意想外なことを口にした。Sが疑問の目を向けると、Aはフロントガラスのはるか彼方を見るように、虚ろな目をして、
 ――ホタルを見に行こうよ。
 疑心暗鬼なまま、SはひとまずAの言う通りの方向へハンドルを切った。夜の住宅街を右へ左へ、いったいこんな郊外の住宅地の中にホタルの棲んでいる場所などあるものだろうかと訝りながら、五分ほどAの言いなりに進むと、果たしてベンツが行き着いたのは、正面に小さな夜間照明が一つ灯っているきりの、薄暗い怪しげな平屋の施設だった。Aが言うには、ここは動植物を飼育する公営の研究施設であるらしく、今日はゲンジボタルが小屋の中を飛び回る様子を無料で間近に見られるとのことで、なるほど入り口の周囲には親子連れやカップルらしき男女が群がっていた。
 ――期間限定だからさぁ、見逃すと来年まで見られなくなっちまう。なぁ一緒に見ようよ。
 この暑さの鬱陶しい夜にホタル狩りなどと風流を気取る心はSにはさらさらなかった。常連客が大切であることに変わりはないが、運転を代行して自宅へ送り届けるまでが義務であって、貸切タクシーのように好き勝手に連れ回されてもかなわなかった。
 ――すみませんが、私は仕事中ですので……。それに、こんなところでお客さんと油を売ってたら、後ろの相棒にバレちゃいますよ。
 相棒とは、このベンツのほんの数十メートル後から追いかけてきている随伴車のKのことである。運転代行をする車には、客を送った後にドライバーを乗せて一緒に事務所へ帰るための随伴車が、つねに後続している。
 ――いいじゃんかよ。向こうにコインパーキングがあるから、そこに停めて。
 Aは施設の方を指差した。
 ――でも……
 ――行けと言ったら行けよ。これ以上気分悪くさせるんじゃねぇよ!
 Aはいきなり怒声を発した。深酒をしている気配はないものの、虫の居どころがよくないようだった。Sはいやいやながらベンツを降りて、携帯電話を取り出してKを呼び出した。
(……もしもし。どうした?)
 ――武田です。ちょっと、秋葉さんが寄りたいところがあるらしくて、しかも、俺も誘われちゃって。……悪いけど、三十分ほど待機していてもらえる?
(もう一杯するのか?)
 Kはたいそう楽しそうである。声の奥ではやかましいラップが鳴っていた。
 ――ホタルを飼育している施設があるんだ。ここが、今日は無料開放していて、無料でホタルが見られるらしいんだよ。それで、Aさんに誘われて。
(ホタル!)
 Kは俄かにガハハハと笑った。そして一呼吸おくと意外な答えを返した。
(了解。会社には、お客さんがトイレへ駆け込んだらしいとかなんとか、取り繕っておくよ。俺もちょっと休みたいし。ゆっくりホタルを見てきなよ)
 Kはふだんの言動が軽薄なだけに、こうして懐の広さを見せてくれるのがSには意外だった。しかしそもそもS自身、この数週間はいっこうに晴れやかなことがなく鬱屈としていたので、ホタルを見に行こう、というAの打診は迷惑に感じていたものの、実のところ、心の奥底では満更でもなかった。だからKの答えはありがたくも感じたのだ。酔客のゲップの悪臭や、昼間の仕事の愚痴不満、罵詈雑言、嗚咽にまみれる運転代行ドライバーのSにとって、この時のホタルという一語は、胸の奥の暗がりを照らす小さな仄めきにひとしかった。でも、どうしてKは俺が客と油を売るのを承知したのだろう、Kはちょっと休みたいと俺に言ったが、運転代行の仕事に埋没して、昼夜の逆転した生活に明け暮れているはずのKがそんな風に言うのは解せない、またそれ以上に、フリーターのK――そう聞いていた――にとってこのアルバイトは唯一の収入源であるはずだから、金が欲しいのなら一晩に一人でも多くの客を送り届ける必要があるのであって、俺が呑気に客とホタルを見に行くのを迷わず承知するのはどう考えてもおかしい、と、Sは携帯電話を切る刹那に思った。すると即座にSの頭に閃いたのは、つい二時間ほど前、新大久保のビルの待機室で客の依頼を待っていた間にKと交わしたささいな会話だった。ささいではあったが、しゃべる必要のないことをついしゃべってしまったという驚きと後悔のために、しかと記憶されていた会話だった。しかしなぜあんなことを口走ったのだろうと思うと、それはひとえに、大地震に始まった厄災が、自分自身のエンジニア生活と夫婦生活に想像以上に重く圧しかかっているからだろうとしか思えない。

(つづく)