夏休み自由研究

 都内の大学へ通っている法科大学院生だ。分厚い本と日夜格闘して、将来「弁護士先生」と呼ばれる日を目指して頑張るのが唯一の義務だ。クソみたいな学生生活! 一応「成人」らしいから、先日、選挙に行って来た。「悪党」という新党が出来たらガハハハ! と笑って喜んで清き一票を投じてやるのになぁ、と思ってテキトーに投票してやった。

 そんな退屈な毎日を一変させる、衝撃的な出会いがあった。俺が登録しているSNSで、日記やプロフィールを公開している女、通称「Y.F」を、近所のスーパーで見かけたんだ。俺は顔写真を公開していないが、Y.Fは公開していたからすぐにわかった。Y.Fの「日記」や「お気に入りのスポット」など見ている内に近所に住んでいることがわかって、近くにこんな美人がいるんだな、と思っていたが、駅前のスーパーで買い物しているところに出くわすなんて! 一七〇くらいのスラッとした長身、茶色がかった艶のある長くおろした髪。まつ毛が長く、二重瞼の大きい目と紅を塗った理性的そうな薄いくちびる。「プロフィール」に「事務系」の仕事とあった通りのスーツ姿。肩にはバッグをかけている。仕事帰りだろうか…。それにしても、なんとも、良い眺めだ。目はキリっとし、歩きつきもモデルか女優がそうしているように、重心が一寸も乱れない。髪の整い具合といい、スーツの着こなしといい、どこもかしこも時間をかけて「装備」されてえて、一点も隙がない。Y.Fは間違いなく、理性の女だろう。良妻となり、賢母となる女に違いない。俺が普段遊んでやってる、渋谷や原宿あたりをうろついて股開いてる、髪が金の青臭い女とはちがう。ハハハ、これまで、ナンパしてホテルへ連れ込んだり、ソープランドで大金はたいて女と一晩中シャボンまみれになってみたり、サークルの仲間と温泉旅行で酒に酔っぱらい男女五人づつで揉みくちゃになったり、知り合いの女房をそそのかして好き放題してから捨ててやったり、色んな放蕩を刻んで来たもんだが、Y.Fにはそれらの女にはない魅力があった。俺、ちょっと、軽い女とばかり遊び過ぎたのかな。Y.Fのことを、もっと知りたいと思った。
 それからというもの、俺はY.Fに夢中になって、毎日二時付近にスーパーを徘徊した。何日も張り込みして、Y.Fを見かけてはつけ回し、住所に職場、本名も突き止めた。ほんとうの名は藤田雪江。勤めているのは都内の某整形外科病院、その受付である。インターネットで住んでいるアパートを調べてみると、家賃は十万円強、2DKだった。部屋の間取りを見ながら、俺は藤田雪江の生活ぶりを色々に想像した。壁に貼ってあるポスター、ベッドのカバーの色、使っているマグカップ…。毎夜藤田雪江が帰宅する時には、街灯の下で浮かび上がる彼女の後ろ姿を見て、俺は歩いた。スカートから出た脚――美しい脚! 俺は脚の美しくない女は美女とは認めない!――や、時おり吹く風に揺れる髪とのぞくうなじを眺めて、俺は彼女に触れているような陶酔を味わった。
 ああ、楽しい、この上なく楽しい。これが、「恋」なのだろうか。
「功一、母さん寝るからね」
 夜、SNSでY.Fを訪ねている最中、ドアの外で、母親が言った。将来「先生」になる息子は、夏休みの深夜も勉強をしていると信じ込んでいる。うざったい、早く寝やがれ。吹き出した煙草の煙の中で毒づいた。そして、その煙草を俺は自分の手の甲に押しツブした。
「痛ッ! うおぉぉ…」
 苦痛の中で、俺はほくそ笑んだ。

「火傷、ですか?」
「ええ、根性焼き。ハハハ、仲間とふざけて…」
「痛そう……高校生じゃないんだから」
 藤田雪江が、初めて俺の手に触れた。優しい手つきだ。ドキドキした。
「火傷じゃどうしようもないけど、先生に診てもらう?」
 俺を見上げた。眉毛を八の字に垂れ下げている。俺は心臓を打ち抜かれたようだった。艶かしい表情だった。「先生」。心地よい響きだ。俺は藤田雪江に毎日会いたくなった、会わずにはいられなくなった。さっそく家へ帰って、財布を取って、近所の公園へ向かった。いつもここでたむろしてる近くの高校の落ちこぼれたちに会うのが目的だった。最初、俺が突き出した札束にヤンキー共は不思議そうにしたが、主旨を話すとやがてニタリと笑って立ち上がった。

「こんどはどうしたの、ケンカ?」
「ええ。大人げなく、やっちゃいました…ヘヘ」
「顔のアザの数、すごいわよ。どうして?」
「近所のヤンキーが子どもをいじめてて。我慢できなくて」
「ヒーロー気取りしてこれじゃだめじゃない」
 俺は一人っ子だが、姉にでも叱られたような心地だった。困惑した藤田雪江の顔が可愛くてたまらなかった。こんなことなら、次はビルから飛び降りて複雑骨折してやろうかと思った。なにはともあれ、俺は落ちこぼれのバカ共に金を払い、通院する資格を得たわけだった。
 ある日、ゼミの友達から夏休みを利用しての温泉旅行に誘われた。くだらない。どうせ酒を飲みまくり温泉に入って頭をホワホワにして、みんなで裸でヤラしい絵図を繰り広げるだけの空しい宴会だろう。俺は即座に断った。
 毎日、病院へ行くのが楽しみでならなかった。日を追う毎に、藤田雪江と仲良くなることができた。SNSのことは一言も言わなかったが、近所に住んでいること、よく使うスーパーが一緒であることなど知ると、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。昼休みに病院近くのイタリアンでランチを取っていたところをつかまえて、世間話に花を咲かせた。最初はテレビの話題などを振ってみたがうっとうしがられたので、切り替えて法律の話をした。医療ミスによる死などを法律的にむつかしいという話を、評論家風の澄ました顔つきでしていると、ちょっとした尊敬の眼差しで俺を見てくれた。俺は藤田雪江との距離が縮まったようでうれしかった。
 しかしその日の夜、とんでもない光景を見たんだ。スーパーの外を通った時、あの藤田雪江が、若い男と手をつないで出て来る姿を見てしまった。男は、サラリーマンらしいスーツ姿で背が高く、短髪で目は大きくて面長な、イイ男だった。見れば見るほど、羨ましいカップルだった。手に提げたビニール袋にはたくさんの食材やら酒が入っているのだろう。それが歩く毎に揺れるのは、二人の気持ちを象徴しているようだ。きっと、久しぶりに二人で過ごす時間を作れたに違いない。これから二人だけの楽しい週末を過ごすのに違いない。受付嬢を勤めている時には決して見せなかった、藤田雪江の楽しそうな笑顔! 俺は今までのときめきが裏返ったように、藤田雪江とその彼氏が、ひどく憎たらしくなった。
 藤田雪江の、いつもは崩れない理性的な表情が崩れる瞬間。それがあの彼氏と過ごす時だけだというのが許せなかった。俺も、あの顔の緊張がほころび、目の線と力がやわらかくほぐれていくさまを見てみたい。あの真面目な顔が陶酔にゆがんで、歓喜の声を上げるのを聞いてみたい。俺の胸の中に、いつも下らない女たちと下らない遊戯にふける時の感情が、一気に沸きあがってきた。

 翌日もイタリアンで藤田雪江と話した。ただし、今日は俺が「ご馳走するよ」と誘ったのだった。彼女は不思議そうにしたが、俺はちょっと深刻そうな顔をしていたので、また、ご馳走してくれるというので、小さなポーチを片手に、俺について来た。
 手の甲の根性焼きはストレス発散のためだと言った。そもそも煙草を始めたのもストレスが原因だと。
 苦しい。将来の「弁護士先生」だか何だか知らないが、はっきり言って親の期待は重すぎる。あんまり家の中ばかりにいるのが苦しいので公園で一人煙草を吸っていたら、ヤンキーたちに絡まれた。子どもを守ったためというのは嘘だ。ケンカに負けたなんて言えなかった。でも考えたら、藤田さんに嘘をつく必要はなかった。俺のことなんて忘れてくれてけっこうだけど、少し話したかった。でも、苦しい、毎日、ほんとうに苦しい…
 というような内容を、俺は深く沈んだ表情で話した。ナンパする時のように目に力を入れて、悲しげに藤田雪江を見ながら。
「ねぇ、もっと気を楽にした方が良いわよ」
「楽になんて、なりっこないよ」
「良かったら、今日の夜、ゆっくり食事しながら話さない?」
「ほんとうですか?」
「ええ」
 俺は心の中でほくそ笑んだ。固く閉ざされた扉を、やっとの想いで開けることができた。

 その夜、藤田雪江と食事をし、彼女のアパートへ行った。理性の壁が崩れ去り、素のままの彼女の表情を、俺は間近に見ることに成功した。
 そうすると、藤田雪江への興味は失せてしまった。幻想的な手品の種を知ってしまった時のように、熱くなっていた胸は一気に白けてしまった。

 それから、俺は藤田雪江を捨てた。
 やがて、ゼミの友達が温泉旅行から帰って来た。下らない遊びにうつつを抜かした後の、間の抜けた顔だった。この間なにをしていたのかと聞かれたから、仕方なく答えてやった。
「夏休みの自由研究だよ。でも、やっぱりつまんなかったなぁ」

 

  おわり