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名前のない手記(10)

日比谷公園での暮らしはそれから数日間つづき、年明け早々に派遣村は閉じた。その数日間、私は藤田君と中年男の姿を見ることなく過ごした。 派遣村を後にした私は山谷へ帰り、再び金本旅館に入った。以前とは違う部屋をあてがわれた。山谷のドヤは人の入れ替…

名前のない手記(9)

そんなことを思っていた矢先、藤田君の前に笹本が現れた。大晦日のことだから、よく覚えている。もっとも、その時私は笹本という名前を知ることすらなかったのだが。 二〇〇八年十二月三十一日、日比谷公園に「年越し派遣村」が開村した。無償で食事と寝る場…

名前のない手記(8)

〇 カップ酒干して秋夜の道に捨つ夢見えぬまままどろむ山谷 こういう短歌を寝床でしたため、新聞に投稿したら、入選してしまった。新聞の評価もいいかげんだな、と思った。短歌の投稿は私の数少ない趣味の一つである。これまでかなりいい確率で入選している…

名前のない手記(7)

藤田君はまた宙を見ていた。目を細めていた。「彼女とは職場で一緒だったんですけど、僕の方は派遣社員だったんですよ。結婚の約束は正社員になることを前提にしていて。でも、この間、クビになった。それと一緒に、結婚の夢も消えちゃいました」「………」 私…

名前のない手記(6)

「しかし、アメリカという国はこれからどうなるのだろう?」「僕がチビのころ、アメリカは『世界の第一等国』というイメージでしたね。街でかかる映画はほとんどがハリウッド映画で、マイケルやマライアが世界のトップエインターテイナーという感じだった。…

名前のない手記(5)

〇 その時点では藤田君はただ「相部屋の奇妙な若者」だった。その印象が変わり、もう一歩踏み込んだ間柄に変わったのは、先に述べたとおり結婚の喪失を聞いてからだ。アメリカでバラク・オバマが大統領選挙に勝利した十一月の初めごろのこと。深夜、藤田君と…

名前のない手記(4)

このドヤ街では藤田君のようにのっけから自分の素性を明かす者は少ない。明かすとしても、よほど相手と親しくなってからのことであろう。しかし、私の経験上では親しくなった相手に対してもここの人間が本当の過去を語るとは信じがたい。ここにたむろする連…

名前のない手記(3)

〇 初めて藤田君と会ったのは昨年の十月の中ごろであったろう。金本旅館で相部屋となった当初は珍しく若い男が泊まりに来ているな、と思った程度で気にも留めなかった。最初に藤田君に注意を向けたのは、十月の終わりごろのある夜である。 金本旅館では一室…

名前のない手記(2)

ここで私自身のことを、必要なだけ記しておくことにする。私はすでに五十歳代に差しかかろうという中年の男である。三十歳代の終わりごろ、それまで数年間つづけてきた結婚生活を失った。それからというもの、私はサラリーマン生活がさっぱり厭になった。上…

名前のない手記(1)

〇 私は今、東京は台東区の日本堤にある「金本旅館」という簡易宿泊所の小さな寝床で筆を執っている。周りは静かである。相部屋の者たちは日雇いの仕事に出ている。明け方の薄明が窓から射し込む中、何者にも邪魔されることなく私は文をしたためている。 こ…

アルミニウム(7)

二人は小屋を出た。そして一言も交わさないまま順路を通って施設を出て、コインパーキングに停めてあったベンツに乗り込んだ。 ――ふぅ。じゃあ、家まで頼む。 Aは低い声でつぶやいた。 ――ちょっと歩いたお陰で、少し酔いが覚めたよ。 ――ホタル、綺麗でした…

アルミニウム(6)

Kは待機室でこぼした俺の言葉を反芻し、気持ちをいくらかでも察して、ホタルを見に行くなどという呑気な接待を承知したのだろうか。つまりは俺に対するいくらかの憐憫がKの胸に萌したのだろうか。Sは携帯電話をポケットにしまいながらフとそんな仮説を立…

アルミニウム(5)

SとRに念願の子が授かったのは二月の寒い日のことだった。それまで長年二人きりで暮らしてきただけに、こうのとりの来訪は二人を狂喜させた。しかし子は翌月に流れてしまった。美容師の仕事が肉体的にも精神的にもRにとって想像以上の負荷になっていたと…

アルミニウム(4)

Kは隣でスポーツ新聞をめくるSの腕を見て、ぼそりとつぶやいた。 ――武田さんの腕。ヒバクしたみたいだね。 Kはところどころ破れて中のスポンジが見えている黒いフェイクレザーのソファに偉そうに寝転がって、スマートフォンをいじくっていた。 ――縁起でも…

アルミニウム(3)

Aの家が近づいてきた。面倒臭い解説もやっと終わりだとSは思ったが、 ――…あのさぁ、ちょっと寄ってもらいたいところがあるんだけど。 とAはいきなり意想外なことを口にした。Sが疑問の目を向けると、Aはフロントガラスのはるか彼方を見るように、虚ろな…

アルミニウム(2)

六月の厭な雨夜だった。 その夜八時過ぎ、依頼を受けたSがゴールデン街の店を訪ねると、Aは目をとろんとさせて、よぉ、来たか、と笑った。ママはカウンター越しにSに苦笑しながら、ごめんねぇ、よろしくねと、厚化粧の上の紅をゆがめて言った。SはAにつ…

アルミニウム(1)

――ところでその、腕にまばらに付いている火傷の痕はいったい何だい? ――はぁ……これは、溶けたアルミの湯が飛び散って……。ようするに、金型を掃除する時、こびりついたアルミを一度溶かさないといけませんので、金型の中に腕を突っ込んで、ガスバーナーで溶か…

似顔絵師(6)

師走はせわしなく過ぎていった。昭男たちはすでに年始、春へ向けての活動を始め、あゆみたちは事務処理に焦り、工場は生産に追われていた。 一年が終わろうとする、師走のこの慌ただしいわずかな数日間が、昭男は好きだった。会社を見ても世間を見ても、誰も…

似顔絵師(5)

引き継ぎはその後、何の支障もなく進んだ。どの得意先でも、「わらびストアーズ」のように清次の退任が必要以上に惜しまれることはなかった。引き継ぎの帰り道の車中で、清次は「ああまであっさり了解されても、悲しいものだよな」と苦笑していた。 一方で昭…

似顔絵師(4)

大型受注が一件あった。決めたのは先輩の金村だった。全国に大型ショッピングセンターを展開する得意先で、鍋料理の小さなレシピを商品近くに置き、いろいろな鍋料理とともに飲み物を提案するプランが採用された。商品の納入も拡大し、売れ行きの伸びも大い…

似顔絵師(3)

やさしい秋の風に細い髪をなびかせ、清次は昭男にボールを投げる。「少し前の暑さが、嘘みたいだよな」 と、唐突に言う。もはや十一月である。この夏はとんでもない暑さが続いたが、過ぎてみればあっという間のことだったようにも感じる。 今日の引き継ぎは…

似顔絵師(2)

その夜は飲み会が開かれた。第一グループを中心に社員十名ほどで、池袋駅前の大衆居酒屋へ繰り出した。メンバーには昭男の他に上野やあゆみの姿もあったが、清次は仕事を終えると一人でさっさと帰宅していた。 普段の飲み会は愚痴や仕事観や人生論などの応酬…

似顔絵師(1)

この上ないくらい爽やかな秋晴れだけど、昭男は、どうも今日は気乗りがしない。「煙草、吸うよ?」 一本取り出し、運転席の清次に見せて聞く。「構わないよ」 清次は答えると、助手席側のウィンドウを少し開けた。冷たい風が隙間から流れ込んできて、昭男の…

二人の盗賊

□ ある寒い日のこと。新聞に大きなニュースが出た。山で検問を張っていた警察が、一人の盗賊を検挙した。盗賊は、その町の巨大な美術・宝石商「G」に忍び込み、大量の宝石を盗み出した。盗難に気づいた警備員が警察へ通報。急いで町の周りに検問を張った警察…

はかなくうつろうエプロンの色

○ トン、トン、トン… と、キャベツを包丁で切る。いつもと変わらない。 ようやく桜が散って、絵美の好きな新緑になった。窓から見える桜の樹に射す光の色は変わり、落ちる影の角度も変わった。空の青さも変わった。風の匂いも変わった。なによりも、芝生にひ…

知られざる肖像画

…つまらない記事になるだろう。 朝の通勤ラッシュに苦しまなくてもすむ新宿からの下り電車の中で、杉村は窓外に目をやりながら胸中で密かにつぶやいた。 洋画家の平川聡が三日前に死んだ。かねてから患っていた喉のために入院生活を続けていたが、読書中に動…

オレ

「彼の衣服の糸一筋も――いや、彼のあの特異な容貌の線一本も、それは実にそっくりそのまま『僕自身の』でないものはなかったのだ!」―ポオ『ウィリアム・ウィルソン』(中野好夫訳) 十二月のある昼のことである。都内の広告代理店「セントス」のオフィスで…

ひとりごと

今日もゴミ収集車を走らせている。 高層ビルに囲まれた、ここは東京のどこかだ。港区○△…。オレにとってはどんな住所でも構わない。毎日のように同僚二人とゴミ置き場を回り、都会のゴミクズを掻き集める、焼却炉に放り込む。それ以外にすることはない。ベル…

夏休み自由研究

都内の大学へ通っている法科大学院生だ。分厚い本と日夜格闘して、将来「弁護士先生」と呼ばれる日を目指して頑張るのが唯一の義務だ。クソみたいな学生生活! 一応「成人」らしいから、先日、選挙に行って来た。「悪党」という新党が出来たらガハハハ! と…

東京旅行

短篇シナリオ「東京旅行」(ペラ約30枚) 【登場人物】・村上美代子(42)…朝から晩まで働き、女手一つで永一を育てる。現在一人暮らし。・村上永一(19) …東京の映画学校に通う。奨学金を貰い、アルバイトをして生活している。・店長(35) …美代子の勤め…