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名前のない手記(16)

 藤田君は殺気に満ちた目を男に向けると、逆に男のシャツの襟を掴んだ。体をのけぞらせ、男の鼻をめがけて思い切り頭突きを食らわせた。鈍い音がした。私は無言のまま大口を開けた。とんでもないことが起きたと思った。男は鼻から大量の血を噴き出して倒れた。藤田君はなおも攻撃をやめず、倒れた男に踊りかかった。中年男をはじめホームレスたちも参戦し、苛立ちが頂点に達したと見えた数多の見物客たちもなだれかかった。和やかな花火大会は大乱闘と化した。頭が酒に熱した男たちがくんずほぐれつ、野性を破裂させた。ふつうならば「喧嘩は江戸の華」と洒落込みたいところかも知れないが、事態は洒落にならない方へ傾いた。藤田君が転がっていたビール瓶を拾い地面に叩きつけて割ったのである。これには私も周囲もたまげた。一同、目を丸くして藤田君から離れようと後ずさりしたが、藤田君の殺気は治まる気配がなかった。
 その瞬間、私は驚きと共に悟った。藤田君はキレている。昨今は行き場のない殺意にまかせ、誰彼かまわず襲って殺害する若者が世を騒がせているが、藤田君はまさにその若者だ。目の前で暴れているこの男が、約一年前、山谷でカップ酒をチビチビしながら愁いのある目で宙を眺めていたあの藤田君とは到底思えないが、現実である。しかし、しらふの時の礼儀正しさからして、酒さえ入らなければこの「殺意のスイッチ」が入ることはないだろう。ここまでへべれけと化している今だからこそ、そのスイッチは容易にONになったのだ。

 乱闘騒ぎのことを仕舞いまで書く必要はないだろう。
 結局、藤田君は割れた瓶を振り回しながらも誰も刺し殺すことはなかった。アルコールが入りすぎていたことが功を奏した。千鳥足で相手に突進しても途中ですっ転ぶばかりだった。藤田君は運がよかったのだと私は言いたい。誰かが花火大会の警備にあたっていた警官を呼んだらしく、笛の音と共に人ごみをぬって迫ってきた。乱闘はあっという間に鎮圧されたが、藤田君は逆方向へ走り、うまいこと脱走に成功した。
 藤田君は災難を免れた。しかし、この後、藤田君には輪をかけた災厄が襲来することになる。今にして思えば、藤田君はこの時捕まった方が幸運だったのかも知れない。

名前のない手記(15)

 がんばって桜橋の方まで行こうと、人ごみをぬって歩いていたら、どこかから人の叫び声が聞こえてきた。なにごとかと思ったが、喧嘩だろうと合唱だろうと、このような夜ならさして珍しくはない。無視して行き過ぎようとしたが、「ホームレス!」だの「難民!」という罵声が聞こえてくるではないか。隅田川のホームレスと見物客がいさかいを起こしているな、と思った。巻き込まれるのはご免だったが、なんとなく他人事とも感じられなかったので、少しずつ近づき、人の頭と頭の間から騒ぎの中心を覗き見て、思わず息を呑んだ。
 そこでは泥酔し切った数人のホームレスが通りの真ん中に倒れ伏していて、浴衣を着た若い見物客たちと口論していた。状況から察するに、見物客が確保していた場所をホームレスが空いていると勘違いして居座ってしまったのだろう。若い男たちは「オレたちが押さえた場所……」とたびたび口にしていた。しかし私が思わず息を呑んだのは、そのホームレスたちの中に藤田君と眼鏡の中年男が混じっていたことである。二人――否、すでに「二人」は「集団」と化していたと観るべきか。この時の集団がどの程度まとまりのあるものだったか、私は今もって知らないが――はマイケル・ジャクソンが亡くなったころからずっと隅田川近辺でホームレス生活をしていたのだ。それにしても、ただホームレス生活をしていたならまだしも、酒に酔って人に迷惑をかけるなど、最低の人間のすることである。私は、地面に脚を伸ばして座りながら見物客を睨みつけている真っ赤な顔の藤田君を見て、顔をしかめた。だが、さらに顔をしかめたのは中年男の言動である。
「オメェら。女なんか連れてこれからどうしようっていうんだ。花火が終わったらどこ行くんだよ、兄ちゃん。えぇ?」
 周囲をはばからず、ニヤつきながら吐き捨てるように言った。藤田君と同じく顔は真っ赤であるが、なんとも厭らしい顔つきである。見物客とはそこから罵り合いとなった。中年男がどんな言葉を口走ったか、ここには書かないことにする。見物客が数組の男女であったのをいいことに、あらん限りの卑猥な言語を並べ立てたのである。そのあまりのえげつなさに周囲の客も身を乗り出し、ホームレス集団に罵声を浴びせ始めた。これがマズかった。
 客たちも酔っていた。その内の体格のいい一人の男が、中年男の隣に寝そべっていた藤田君のシャツの襟を掴んで怒鳴った。
「おい、くそったれホームレス。とっととダンボールの家へ帰れよ。ここはお前らみたいな貧乏人のいるところじゃねえんだ!」
 途端に藤田君は目を血走らせた。瞬間、私はゾッとした。

名前のない手記(14)

   〇

 それからというもの、私の中での藤田君に関する感情の起伏は消え失せた。夜の酒、寝床の書籍を友に、私は夏を過ごした。藤田君のことは思い返すこともなかった。
 今思い返してみると、藤田君と笹本は夏の間、ずっと隅田川べりで暮らしていたのであろう。詳しくは聞いていないが、笹本と会って山谷を出てから夏までの間、二人して都内のネットカフェや公園で泊まり歩いていたものと思われる。なぜ藤田君は笹本などと行動を共にしていたのか、今でも疑問だが、とにもかくにも二人はマイケル・ジャクソンが亡くなった頃には隅田川のブルーシートへ流れ着いていたのだった。私はその点には納得できる。なぜなら二人には私も熟知していなかった厄介な酒癖があったのだ。これがあるために、二人はホームレスになることを余儀なくされたのではないか。
 私は、二人の酒癖を図らずもふたたび訪れた隅田川べりで目撃することになる。

 藤田君のことなど頭の片隅にもないまま、私は缶ビールを片手に隅田川べりを歩いていた。大好きな「KIRIN」を飲みながら歩く隅田川はまた格別であった。その日は隅田川花火大会が開かれ、川沿いの通りは人の群れに埋め尽くされていた。
 私は白いTシャツに白い短パンという格好だったが、いずれもかなり薄汚れていたから、傍目にはホームレスのように見えていたかも知れない。途中、同様の格好をした、ヒゲを生やした三十代くらいの男とすれ違った。ちょっぴり恥ずかしくもあった。

名前のない手記(13)

 すっかり長くなった髪をダラリと下ろしていて別人のようだったが、藤田君に違いなかった。酒に頬を赤らめていた。すっかりマイケル・ジャクソンになったつもりでいるのだろう。「Who's Bad!」とはマイケルの楽曲「BAD」の歌詞の一部である。マイケルと街のならず者らしき若者たちが廃墟のような場所で踊るミュージックビデオを、私も見たことがあった。しかし「BAD」のビデオにはムーンウォークのシーンはない。藤田君の踊りはでたらめだった。
「藤田ぁ。その踊りはどこで覚えたんだよ」
 中年男がぶっきらぼうに問いかけると、
「昔、ちょっとねぇ」
 と藤田君はふざけた口調で答え、開いた口から舌をベロンと出した。私が顔をしかめるほどの、愚劣の極致のような顔である。藤田君は明らかに泥酔していた。私は藤田君の変貌ぶりに唖然とした。この男が、数ヶ月前はわずかな愁いのようなものをその表情に残し、山谷でひっそりと日雇い労働に携わっていたあの藤田君なのだろうか。たしかに山谷の住人に特有の「莫迦のような笑い」が染み着いてきたときは胸の内で祝福したものだったが、ここまで急激に落魄してしまうとは予想しなかった。私はすっかり呆れた。ホームレスが最底辺なのではない。彼の顔と精神こそ最底辺なのだ。きっと、眼鏡の中年男と一緒に過ごす内に、精神が荒廃していったのだろう。なんとなく、この中年男とつるんでいたらそれもありそうなことだな、と私は感じた。
 そう思うと、途端に藤田君へのシンパシーは胸の中から消えていった。私は山谷へ帰った。

名前のない手記(12)

 高層ビル群が雨上がりの西日を浴びて橙に照っていた。雨上がりのトワイライトタイムほど素敵な時間はない。私は心を小躍りさせながら日本堤から隅田川までを歩いた。川べりまで出ると、桜橋を目指してぶらぶらした。
 ここは東京有数のホームレスたちの住処である。ブルーシートにくるまれたほったて小屋が連なり、その中には私以上に「敗北」した落伍者が暮らしている。私は日雇いとはいえ仕事をして報酬を得、その金で飲み食いと寝る場所を確保しているが、ここに住む者たちのほとんどは仕事がない。つまり金もない。したがって飲食はゴミをあさって行う。ドヤ暮らしの生活とて真の最底辺ではない。人間の世界でもっとも惨めな部類に属するのは、ホームレスだ。
 かくいう私も十数年後には彼らの仲間入りを果たすことだろう。その内に足腰が肉体労働の使い物にならなくなったら、ドヤを後にすることになる。そうしたらここへ来て、残飯やら落ちたゴミを拾って生きることになるに違いない。そのような未来――末路というべきか――は、とっくに推し量ってある。
「オレの終の棲家になる場所だな……」
 と、ひとりごちた。トワイライトタイムの陶酔はどこへやら、ブルーシートを見たら途端に現実に引き戻された。歩くのも厭になったから部屋で本でも読もうと思い、踵を返そうとした時である。ブルーシートの脇で数人が一緒に酒を飲んでいて、中に一人、陽気に踊っている男がいた。どう見ても酔っ払っているが、身のこなしからしてここらのホームレスよりはるかに若い男であることが知れた。すでにたそがれ時で顔がよく見えないが、長髪を振り乱して阿呆みたいに踊っている様は、どうやらマイケル・ジャクソンを意識してのことであるらしかった。男がアスファルトの上で見事なムーンウォークを披露すると、酔っ払い連中は歓喜の声を上げた。その時私は瞠目した。ゲラゲラ笑う男たちの中にあの中年男がいたのである。大口を開いて出っ歯を曝し、眼鏡の奥の小さな目をなくして莫迦のように笑うあの顔は強く印象に残っていた。派遣村で藤田君と一緒にいたあの男だ。そして、ということは、目の前でマイケル・ジャクソンの物まねをする男こそ藤田君であるに違いないと、私は思った。しかし、見れば見るほど、およそたそがれの隅田川べりには似つかわしからぬ奇怪な光景であった。
「Who's Bad!」
 男は踊りのフィニッシュを決めた。

名前のない手記(11)

 それきり、藤田君とも連絡が途切れてしまい、数ヶ月が過ぎた。私はこれまで通り金本旅館に暮らし、日雇い労働を続けた。昼は建設現場で砂埃にまみれ、夜になれば酒をあおり、金が貯まれば風俗店へ出かけて女を買う。そしてただ時間ばかりが過ぎていく。その他は何も変わらない。ドヤの労務者たちの莫迦な顔も変わらない。
 それまで、数人くらい藤田君くらいの間柄にまでなった者はいた。しかしこの山谷ではたとえどのような間柄に発展しようと、ある日、突然その間柄が消滅することはよくあることだった。山谷を去った者だけがその事情を知っていて、山谷に残った者にはその事情を知る術はない。だから私のように山谷でいつまでも生きていこうと思っている人間には、それらの事情を知ることも、体験することも未来に決してないであろうと思われる。事情とは、就職か、結婚か。当然ながら私には知る由もない。
 藤田君の事情とは、果たしてなんだったのだろう。少なくともあの中年男が鍵になっていることは間違いなさそうだが……。そんな述懐を残したきり、藤田君の記憶はだんだんと薄れていった。

 藤田君と再会したのは、私の頭から藤田君の記憶が消えそうになっていた六月のことだ。再会といっても、私の方が一方的に彼の姿を認めただけだが。
 その日は雨が降っていた。仕事へは行かず、金本旅館のロビーでテレビを見ていた。ニュースでマイケル・ジャクソンの死を報じていた。マイケル・ジャクソンと言えば、あの映画に詳しい青年が酔っ払いながらその名をつぶやいていたっけ……と思った。
 退屈な午後は、金本旅館の一室で読書しながら過ごした。読んでいたのは永井荷風の『すみだ川』で、読み進むうちに私はふと、隅田川べりを歩いてみたくなり、寝床を出て窓の外を見ると雨はやんでいたので、「よぅし」と思った。

名前のない手記(10)

 日比谷公園での暮らしはそれから数日間つづき、年明け早々に派遣村は閉じた。その数日間、私は藤田君と中年男の姿を見ることなく過ごした。
 派遣村を後にした私は山谷へ帰り、再び金本旅館に入った。以前とは違う部屋をあてがわれた。山谷のドヤは人の入れ替わりが激しいから、これは当然のことだった。藤田君はあれからどうなったのだろうと思い、旅館のおばさんに聞くと、
「ああ、あの若い人ならちょっと前に出てったわよ。眼鏡をかけた変なオヤジと一緒だったねぇ」
 とっさに、あの中年男か、と思った。一緒にこの旅館へ来て一緒に出て行ったということは、今でも行動を共にしている可能性がある。ひょっとしたら、父親かも知れない。
「オヤジっていうのは、藤田という名前じゃないか?」
「知らないわよ。ここじゃ名前なんてあってないようなものでしょう」
 たしかに山谷では偽名を使って過ごしている者が多い。多いというより、私の知っている名前がどれだけ本名であるのか、私も知らない。中年男がこの旅館での数日間をどんな名前で過ごしていたとしても、それは何を示すわけでもないのである。
「出て行く前の夜に、若い人と一緒に前の通りで酔っ払いと大喧嘩したんだよ。騒ぎはゴメンだからね。二人にはキツく言ったんだけど。そうしたら出て行った」
 喧嘩の原因はおばさんも知らなかった。それ以上、中年男に関する情報は手に入らなかった。